聖なる3日間 ~ 聖木曜日 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。


昨日、木曜日から聖週間の中でも、最も重要な復活祭を迎えるための『聖なる三日間』に入った。33歳で生涯を閉じたイエス・キリストの受難・死・復活のクライマックス。

ユダヤ暦の週の第6日である木曜日の日没から金曜日の日没までを言う。つまり、『最後の晩餐』からイエスの死、そして墓に葬られるまで・・の3日間。

『最後の晩餐』はミラノのSanta Maria Delle Grazieのレオナルド・ダ・ヴィンチの壁画が世界的に有名。弟子達が食卓に着いた時、イエスはたらいに水を取り、弟子達の足を洗い、布でその足をふいた。それはご自分が神の子でありながら、自らへりくだって弟子たちの足を洗ったように、弟子達にも謙遜な心を持って人々に奉仕をしなければならないことを教えられた。

又、パンとぶどう酒を弟子達に渡し、『これは私の体である。』『これは私の血である』と、聖体の制定をした。これはあくまでも『霊的な糧』という意味であやしい宗教というわけではない。

ところで、昨日9時半にミラノのドウモでは『聖香油のミサ』というミサがあり、ミラノ教区の司教たちが集まり、祝福された油が教区全部の教会へ配られた。そしてこれからこの一年にこの油を使って、洗礼や病者の塗油に使われる。病者の塗油とは、病気(事故、老衰なども含め)で命が危うくなった信者を助け強めるしるし。

キリストとは「香油を注がれた人」という意味のギリシャ語ハリストス(Χριστός)が語源であり、もとはヘブライ語משיח(マーシアハ)あるいはメシア(アラビア語ではمسيح マシー)のギリシャ語訳。英語Christには「救世主」という意味も含まれる。

キリストが十字架につけられたときに、頭の上に『これはユダヤ人の王』と書かれた札を掲げられるのだが、これはラテン語のIESVS NAZARENVS REX IVDAEORVMであり、その略語「INRI」をよく絵画に見ることがあると思う。

本来は罪のない、キリストが政治犯であるバラバの釈放の代りにはりつけの刑にあわされるのは、正に『主の生贄によって、罪びとが救われる』ということを実に体現しているわけである。

ミラノのアンブロジアーノ典礼はクリスマス以上にこの復活の儀を大切にしている。

毎年、主が足を洗う『洗足式」を含めた聖木曜日の「主の晩餐の夕べのミサ」は9時から地元の教会に出かけていたのだが、昨日は7時からであった。勘違いをして夕方6時半まで近所の公園に次男とそのお友達といた。帰り際、教会により、時間を確かめたら、ありゃりゃ、時間がない!ということで、そのままミサにあずかった。

つまらない。疲れた。帰りたい・・・という次男。先日あるミサで、わからないから、退屈で、ぐねぐねしていたら、ある方に「わからないなら、ミサで喜びをいただくこともできないから出ていきなさい」といわれた。個人的には、突飛すぎない?!とも思い聞き流した。が、昨日の洗足式では、それまで退屈していた次男が、「あーこれ知ってるよ。12人弟子がいるんだよね。」・・・配布されていたパンフレットのパンと杯を指さして、学校の宗教で学んだことを得意顔で小さな声で説明してくれる。

「私のしていること(この部分では主が弟子の足をあらうこと)今あなたにはわかるまいが、後で、わかるようになる」

上に立つ人間が自らへりくだって弟子たちの足を洗う姿は、人々に対し謙遜な心をもって人々に奉仕をしなければならないという「愛の模範」。

四旬節は「祈り」と「節制」と「愛の業」という三点をもって信仰を問いただす「時」。特に「愛の業」は、自分と他者とのかかわりの中で、どのように実践すべきかと思っていた時に起きた、日本の地震・・・。私に何をお求めですか?私にできることは何?常に自問自答だった。

ところで、前教皇ヨハネ・パウロ2世は回勅「新しい課題」において、発展の意味についてこう記している。

「発展とは、富める国が現在享受している生活水準にすべての人をひきあげることではなく、労働を結集してよりふさわしい生活を築き上げること、個々人の尊厳と創造性、そして、天職、すなわち神の召し出しに答える力を具体的に高めることなのです。」とある。

一人一人に与えられている神からの召命、与えられた場で、その召命を開花できる人が一人でも多くありますように、と祈るのみである。