Solidarieta' (ソリダリエタ - 団結、連帯感、互助、共感、共鳴)という言葉を、イタリアではよく使う。共同体との連帯感・・・というには、大げさかもしれないが、自分の利益とは関係なしに、困った時は、お互い様さ!とでもいうように、助け合う。本来、その中には、国籍も宗教も関係ない。
所詮、人間というものは独りで生きては行けぬもの。だったら、皆で助け合って喜びも悩みも分かち合おうよ、そういう観念がイタリア人の根底に流れているように思う。多分、日本だってある時期までは向こう三軒両隣り的生き方をしてきたはずだけど・・・。
それにしても、毎日、どこへいっても日本の被災に関する話題ばかり。
近所の元小学校の先生であったおばあちゃんが、「私たちは普段から、他人に対して無関心すぎるのよ。挨拶さえしない人が増えている。少なくとも、常に笑顔でいましょうよ。ほら、シニョーラを見て!」と私を指さし、ほかの人たちに言っていた。私、外面はいいもんで・・・笑 いずれにしてもおばちゃんの言葉にも一理ありか。
人は、苦しんでいる時、さみしい時、微笑みを人に求める気持ちが強い。でもそれが得られなくても自分には人を責める権利はない。自分も微笑まれたいのなら、ほかの人もそうだろう。その時に自分が最初の一歩を踏み出すこと、それが大事なんだと思う。
微笑みは、なんの苦労もない人、不幸、災難に遭わない人が持つ特権ではない。むしろそのようなことに出会ってあとに生み出されたほほえみは自然のものよりも美しいし、こころの隙間にしみてくる。
人間には、いろんな力が与えられているけれど、その中で最もすばらしい力は、物事に意味を与えることができる力だと私の大好きなシスター渡辺和子はいっている。
苦しみにさえ価値を見出し、(今これをいうには、ぶしつけ、不謹慎かもしれないが)すべてをありがたいと思うことができ、逆境においてさえ微笑むことができるのが人間なのではないだろうか。
ほほえみ
ほほえみは お金を払う必要のない安いものだが
相手にとって非常な価値を持つものだ
ほほえまれたものを豊かにしながら
ほほえんだ人は何も失わない
フラッシュのように瞬間的に消えるが
記憶には永久にとどまる
どんなにお金があっても ほほえみなしには貧しく
いかに貧しくても ほほえみの功徳によって富んでいる
家庭には平安を生み出し 社会では善意を増し
二人の友の間では友情の合言葉となる
疲れたものには休息に 失望するものには光となり
悲しむ者には太陽 いろいろな心配に対しては
自然の解毒剤の役割を果たす
しかも買うことのできないもの
頼んでも得られないもの
借りられもしない代わりに盗まれないもの
なぜなら自然に現れ 与えられるまでは存在せず
値打ちもないからだ
もし あなたが誰かに期待したほほえみが得られなかったら
不愉快になる代わりに
あなたの方からほほえみかけてごらんなさい
実際 ほほえみを忘れた人ほど
それを必要としている人はいないのだから
あなたは今、ほほえんでいますか?
