四旬節は本来「灰の水曜日」から始まる。しかしミラノだけは日曜日から。なので「灰の日曜日」になるはずが、なぜか我がパロッキアは四旬節は始まっても、灰を授けるのは月曜日となっている。しかもローマ式とは逆に、ミサが終わってから、灰の祝別と塗布がなされる。朝8時半か夕方6時のミサのみ。朝次男を学校に送ってから、すぐに教会に駆けつけた。
すでに、司祭の説教中だったが、どうも日本の受難についての話のようだった。その後、やはり共同祈願では日本に向けた祈りが捧げられる。
先週はカルネヴァーレの休暇があったので、4日ぶりの学校。多くの人に、声をかけられた。イタリア人は相手を思う時、肩や、背中に触れたり、手を握って話してくる。ぐっとあつい思いがこみ上げてくる。日本の皆、イタリア人も祈ってくれていますよ。
さて、灰の日は昨年の『枝の主日』(復活祭直前の日曜日)で使った枝(ミラノはオリーブの木の枝)を、焼いて作った灰を受ける日。
昔は、重大な罪を犯して償いを課せられた信者に対してしか 行われていなかった儀式だったそう。そして、彼らは、聖木曜日に罪のゆるしが与えられて、聖体拝領ができるようになるまで、回心と償いのわざを行ったのだそう。現在は、一般の信者も、回心と償いのわざを促すしるしとして、一人ひとりの頭に、灰を受けるようになっている 。
あなたは塵であり、塵に帰ってゆくのです。(創世記3:19)
上記、「枝の主日」で使う枝(本来はシュロ)は、勝利と歓喜の象徴である。これを焼いて灰にすれば、人間の栄華もおごりも、一朝にして過ぎ去るはかない夢で、最後は滅び去らねばならない事を諭している。
ところで、阪神大震災当時にNY Timesの東京支局長だったニコラス・クリストフ氏の「日本へのお悔やみ、そして称賛」と題するコラムがNY Timesに出ていた。日本人の「我慢」という美徳、精神力の強さをたたえ、復興に向けてエールを送っている。
http://kristof.blogs.nytimes.com/2011/03/11/sympathy-for-japan-and-admiration/?scp=1&sq=Nicholas%20Kristof,%20Japan&st=Search
その中で、松尾芭蕉の俳句が紹介されていた。
The vicissitudes of life.
Sad, to become finally
A bamboo shoot.
(うきふしや竹の子となる人の果)
世の中の憂き節が、生き生きと延びる筍に面影を重ねて偲ぶということなのだろうか。ああ、無常。やはり人ははかない。
どうも灰につながるものがある。けれど、考えてみればアダムとイブは塵で作られた。これは輪廻?!私達は「小さなもの、儚いもの」であることを忘れ、すぐ思い上がってしまう。だからこの気持ちを忘れないようにしなくてはならない。
それにしても、多くのブロガーがこの震災に触れてブログを書いるけれど、人の思うこと、感じることは千差万別。賛成、反対、口を慎め・・・炎上している所さえ、見かけた。
悲しいこと。
何をどういっても、私は遠い所にいて、できることと言ったら、ただTV,PCにかじりつき状況を見守るだけ。良い方向に行くことを祈ることだけ。日本で不安にふるえあがっている方々を思うと心苦しい。少なくとも、こちらも生活を節制し、寄り添える心をもっていたい、と思っているのだが、他に何ができるのだろう。
支援、情報、そして人も過集中してしまうと、混乱を引き起こす。需要と供給のマッチングの難しさ。やっぱりできるのは、義援金を送ることなのかなあ。信頼できるところに送ることが大切でしょうか。
東北関東大震災義捐金受付先はこちら
http://www.jrc.or.jp/contribution/l3/Vcms3_00002069.html
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