以前、ミラノの「詐欺」について書いたことがある。
http://blog.livedoor.jp/s_sofia1317/archives/2010-11.html#20101115
私の日記を読んで、「うちにも来ましたよ」「会社にも来ましたよ」という方が数名いらした。
もう本物かどうかというよりも、家に来られるのが、うっとしい。一度怪しいと思うと、すべてが怪しく思える。少なくとも家に直接来る歓誘は受け付けない方がいいと、人に言われたことがあるので、シャットアウトしている。
ちなみに電話で勧誘がしつこいのは、Fastweb.「もう3回聞きました。」「一度断りました」・・・まったくノルマがあるんだろうけどさ・・・しつこいのはお断り。
さて、今度はどことかの財団を語る献金を求める輩がやってきた。
「なんとかInternational」と書かれたゼッケンのようなものとバッジをつけていた。「僕たちのことご存じですか?」「いいえ」「あれっおかしいなあ。TVのコマーシャルでもやってるんですけどね・・・「アイウート」とか「アユターテチ」なんていっている財団関係のコマーシャルは確かにいくつかあるかもしれないが、いちいち気にはしていない。
「お名前は?」「そふぃあ」そこからいきなり、Tu(つまり友達感覚で話し始められたから驚き!!「ね~、普段何してる?井戸を掘ったり、貧しい国に学校とか作ってる?」僕たちはそういうことをしているのさ、とでも言うように、にこにこいう。「チョエ?!」(だから何?)というと、「だから、お金を集めているってわけ・・・」という。
「いくら?」ぶっきらぼうに、しかも直接的に聞くと、「コーヒー代でいいんだよ」とのこと。じゃあ80セント渡せば帰ってくれるの?!とも思ったが、わざわざ家に来て、お金を徴収していくなんて、ATMの検札で現金徴収(本来は振込。でもそれじゃあ誰が払う?!)する輩よりたち悪い。すると「振込でもいいんだけどね」という。「一度だけでいいの?」というと「毎月10ユーロ。別にこの先50年振り込んでくれ!というわけじゃないんだしさ~」とやたらなれなれしい。わたしゃこの先、50年も生きてません。(たぶん・・・憎まれっ子世になんとかか・・・)いずれにしてもコーヒー代80セントだったら一カ月24ユーロ。10ユーロに値下がりなんだ・・・。
まあどんな活動をしているかを知ってもらい、自分も参加したい、送金したいと 思う人がいるのなら、歓誘も結果的には活動を促進することになるのだけれど、どうも好かない。だからといって人を助けたくない、というのとは別の話。やはり相手が本当に信頼できる組織なのか?たとえばユニセフでも、お店にいる人はただ働きじゃあない。とすると、商品だって決して安いわけではないし、その数パーセントが組織の人のお金として流れるのはどうだろう・・・そういうのが好かないのだ。
自分がカトリック信者だからいうわけじゃないが、教会の献金は、目的こそいろいろあるが、教会内で奉仕する人は、その言葉通り、奉仕者。自ら進んで無償で参加しているのだ。そして、献金額はそのまま目的地へ行く。そういうのが大切なのだと思う。
「たったの10ユーロだよ?」と彼ら・・・。たかが10ユーロ。されど10ユーロである。特に私は仕事もしてないし、自分の収入はバッグ作成で得たものだけ。材料費を考えると、たかがしれている。それを多少ため、教会の献金に回したり、会費にまわしている。良い行為だとしても、あちこちにはできない。「実は私も参加しているプロジェクトがあるから」といって断った。昨年は某修道会を通してバングラデシュの恵まれない子供たちに牛3頭を買うために献金運動をしてきた。たかが牛と思われるだろうが、それでも小さな行いの積み重ねの結果である。今年は別の会が現在企画している学校づくりの話がきているので、どうしようかメンバーでこれから検討するところなのである。
「愛」の反対は、「憎しみ」と思われがちだが、愛がない状態、つまり「無関心」であること。自分のことしか考えないで、人のことはどうでもよいということ。私たちは、何かのきっかけで、できるだけ心を広く人々に開いて、自分の身近でなくても、遠くにいて困っている人たちのために小さな捧げものをしよう・・・と思っても、なかなか余裕がないとできないもの。
地元の教会では年に一度、紙でできた貯金箱のような箱をもらう。ちょっと我慢したコーヒー代。バスに乗らずに歩いた分の交通費。そんな気持ちをちょいとコインに託して入れる。1年たてば多少の額になる。
子供たちには、お金だけじゃなく、贅沢や欲求を押さえ、食べ物の好き嫌いを我慢することも意味があることなんだといっているけれど難しいかもね~。「つまんない」(←次男の口癖)、「面倒」(←長女の口癖)「いや」(←実際には何に対しても「え~っ?!」なんで僕?!という意味合いで文句ばかりいう長男)・・・そういう言葉をぐっと我慢して、敢えて自己鍛錬する。こりゃ大人でも難しいか。
私たちができることって何だろう?マザーテレサも言っている。
~大切なのは、どれだけ沢山のことをしたかではなく、どれだけ心をこめたかです。
私たちのすることは、大海のたった一滴の水にすぎないかもしれません。
でも その一滴の水が集まって大海となるのです。~
そうそう、できる範囲で、無理せずに・・・しゃかしゃかまた編み物に励みます。(誰かに『鶴の恩返し』だと言われた!爆)