梅田支店は彼にとって居心地の良い店でした。モーツァルトの好きなそば屋、三国志通の珍味屋、60歳でゴルフを始め1年でH'ccp18になった鋳造会社の社長、酒の飲めない彼を毎夜のごとく曽根崎新地に誘う周旋屋・・と思い出はつきません。


彼は梅田支店長にも大変かわいがられました。梅田支店長のM氏は仕事の鬼で、毎朝幹部を集めて会議を開きました。

しかし彼は毎朝その会議に遅れ、会議室の外から会議に参加しました。即ち会議室に入れてもらえなかったのです。


彼は素直に反省しますが、それを改められることがなく、ついには支店長宅の隣に転居させられ、毎朝支店長車に乗せられて出勤しました。


店内ではうらやましがる人と気の毒がる人が半々でしたが、彼がどう受け止めていたかは定かではありません。


そんな彼は二人目の娘を授かった時ふとこんな事を考える様になりました。

この銀行に勤めている限り子供に大学を卒業させ得るのは二人までが限界だ!

そして彼は男性不妊手術(パイプカット)を受ける事にしました。

妻は彼の決心をまさか本気だとは思っていなかったので、大変怒りましたが後の祭りでした。


彼に手術を施した医院は美容整形外科で、二重まぶたや隆鼻手術が専門でしたので、看護婦さんたちは若くて美人揃いでした。

即ち看護婦さんたちは病院の生きたサンプルなのです。


手術当日、さすがに恥ずかしい彼は自分の手術は中年の看護婦長さんと先生でやってくれるよう頼みました。

先生もその気持ちを快く受け止めてくれ手術が始まりました。

睾丸の裏辺りを2箇所メスを入れたそのときでした。

何と運悪く停電してしまったのです!


しばらく待ち、関西電力など四方八方に手を尽くしましたが、復仇の目途が立たちません!

だんだん青くなっていく彼の顔をよそめに、先生の命令が発せられました。

「看護婦全員、懐中電灯を持って集合おかっ患部を照らせ!!」

この後の彼の光景はご想像にお任せします。。。。


・・・手術は無事完了しました。

心配させたということで、手術代はまけてくれました。


そして一言

「縫い忘れがあるかもしれん。」

勿論冗談でした。


5日後抜糸のために彼は医院へ行きました。

もちろん若くて美人の看護婦さんたちにも挨拶しました。


すると看護婦さんたちは口々に

「兄弟以上の仲ですよ。」

「守秘義務は守られる。」

などと、言いました。


彼はあまり大きな持ち物ではなかったので守られる秘密はそのことかと考えました。

少なくとも看護婦さんたちとの関係は他人でなくなったような気がしました。


彼は出勤の車の中で、笑い話のつもりでこの話をしました。

すると意外な質問が返ってきました。


支店長 (パイプカットをすれば)「何が終わった後でも疲れ知らずで、連続してできるという話を聞いたことがあるが、本当か?!」

「言われてみればおっしゃるとおりです。昨夜も家内と3回しました。」

といたずら心で答えました。


それを聞いた支店長

「精子はホルモンである。それが放出されずに体内に戻るということで、疲れないということか!納得できる!」

とかなんとか勝手に理屈をつけていた支店長は、何と男性不妊手術(パイプカット)を受けてしまったのです。


そして1ヶ月後

「ハーちゃん、お前 嘘ついたやろ!」

と厳しい追求がありました。

が、彼はとぼけて

「それはおかしいですね。年齢差でしょうか?」

と答えました。


その後梅田支店で、彼と支店長の他に何と四人のパイプカット施術者が確認されたのは、どうやら支店長のうそ情報の所謂と思われました。


なぜなら彼は支店長以外に手術の話は誰にもしていなかったからです。


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地価街のお店と10社程取引が成功しました後、彼は情に訴える営業活動に疑問を感じ始め、新長田支店の入社間もない頃に、わざと濡れて営業に回った頃と大差ないセールス方法だと気付いて止めました。


社長訪問が縁となったお付き合いは長く続きました。

神風特攻隊の生き残りの社長とは、彼がその後銀行を退社した後も香港旅行にもいっしょに行きました。


目的もなく市内を走る二階建てバスで、二人きりになった時、その社長は急に新内を唄い始めました。

特攻でなくなった恋人を思って呼びかける唱でした。

その新内を社長は悲痛な声で唄いました。

特攻で亡くなった友への生き残りの叫びのようでした。


彼はそれまでプロの新内、それも「あけ鳥とらん蝶」しか聞いたことがありませんでしたが、その夜は本物を、しかもアマの唄うのを聞き、心が震えました。


対岸の香港島のビルの明かりが、まるで蛍のように見えました。

最初は突然唄い始めた新内に目を丸くしていたバスの運転手までが最後には、我々二人にOK(素晴らしい!)のサインを出しました。

心のこもった良いものに国境はないと改めて思いました。


年上の人たちとの付き合いは教えられることが多く、その人たちが語る言葉に一つ一つ感銘を受けましたが、一人、そして又一人ともう二度と直接言葉を交わすことのできない世界へ旅立って逝かれました。


彼もそのうちその一人となることでしょう。しかし悲しいことに彼は後輩に残せるような哲学がありません。

「いい加減な人生を送れ。」とは若者たちには言えませんから・・・。


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年齢は親子ほども違いましたが、友達付き合いの珍味屋さんがありました。

そこには当時大変珍しい食材がたくさんありました。(だから珍味屋さんなのですが)

今では普通の食べ物でも、当時は珍味だったものがたくさんあります。

たとえば、ザーサイ、シシャモ、ママカリ、ウルカ、ホヤ、キャビア、ホアグラ、干し数の子、干しホタテ貝柱、このわた、からすみ、蜂の子、イナゴ、蟻までありました。

彼の家では正月には干し数の子を水で戻して食べましたので、塩数の子の味にはなじめませんでしたが、このときたくさんの珍味を口にすることができたのはU氏のおかげでした。

U氏と彼はお酒が飲めないタイプでしたので、珍味を並べて、お茶のつまみにしました。話題は三国志でした。


いつも話が盛り上がり、店が終わってお寿司屋へ行ってでも関羽の男振りが話題の中心になりました。

注文するネタは白身のヒラメ、タイ、カワハギは、二人の共通する好みでした。

少しでも、身がやわらかそうだと、板前は二人に勧めませんでした。

食が進むとサバ、アジ、イワシといった青背の魚が注文されました。


太刀魚、さわらも好きでしたが、めったに身の引き締まったネタに会えないので普通は遠慮しました。

車えびの踊りは好物でしたが、頭と尾は除去してもらいました。

ウニも好きでしたが、軍艦で食べると上顎にのりが引っ付きますので、のり抜きでシャリの上にウニを乗せてもらいました。

イカは特に剣先が好きでした。その後東京のお寿司屋で剣先を注文しましたら、槍イカが出ました。

歯切れと甘みが違いました。東京では墨イカと出会いました。大阪、神戸では見たことがありませんでした。

東京で、ハモの湯引きを梅肉で注文すると、開ききってない切り身が出されて驚きました。

関西では京都でも大阪でも神戸や明石でも、白い菊の花のように開いた湯引きが出されるのが普通でした。


珍味屋U氏から彼は

「生のニシンはうまい。」

とかねがね聞かされていました。彼が知るニシンは身欠きにしんでした。

20年後東京で子持ちのニシンが出されたときには目を見張りました。

彼にとって明石の蛸と、メバル、瀬戸貝は懐かしい味でしたが、東京ではお目にかかることができませんでした。


ふぐの肝も東京では入手不可能な食材でした。

が、キンキという魚の煮付けの美味なのには明石の食材を忘れるほど感動を覚えました。


珍味屋U氏が元気なら招待したいと思いましたが、既に他界してしまわれました。

三国志を語り合った日々を思い出し胸が詰まりました。


U氏の息子にスキューバーダイビングを指導して、若狭や和歌山沖に出かけました。

漁業組合の事務所に日本酒一升を持参し、許可を得ました。

泳がない貝には手を出さない条件で、日本海はOKでしたが、和歌山では潜水で魚を見るだけに制限されました。

帰りにU氏の息子はハマチを買って土産にしました。

U氏は彼にも取れないハマチをもりでとったと勘違いをして大喜びでしたので、買ったことは伏せておきました。


取引というより、人との付き合いの深みが増し、それとともに人生の味わいも広がっていった頃でした。


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