BLACK VELVETS

BLACK VELVETS

火水(ホシ)の舞踏と祝祭の音

シンギングボウル と霊性に
身体から働きかけるワークを
やっています



 コロナからワクチンから5Gだのスパイクたんぱく
 だの諸々の影響化にいま我々の身体は
晒されております。

 中医学の概念で衛気という自分の身体を守る
 エネルギーがありますが、これがあると環境毒から
守られる事が出来ます。
 

 あとは気脈開通法の視点から言うと大抵の瞑想者は
ハートを開けば開くほど過敏になって周りからエネル ギーを受けやすくなります。


 大抵はそこでイメージで自分を保護する
ワークなどをやったりするのですが、これは下位身体との連動性がないとうまく機能しません。

イメージ、観想法を本当に機能させるためには
それに対応する気脈を開通させる必要があります。

 
今回のクラスでは自分を肉体的にも精神的にも
 守るためのワークを行います。

p.s  ちなみにこの衛気のワークは権威に
対する依存や境界線(間合い)の問題も
含んでいます。
 

 12/27(土)  12:30〜17:30

  参加費2.2万

 

 お申し込みはoshokrantiアットマークyahoo.co.jp




 

 

来年最初の横浜でのワークはヴィシュッダ、喉、もう
少し大きく取ると首のワークになります。

私が以前学んだチベット由来のワークでは
首の封印を解く為のMAPがありました。

首という部位は武術的にも
身体の中でも最も弱い部位の一つですが
霊的には沢山の封印がされている場所
でもあります。

首はいわば霊的中枢の要である
水晶宮と呼ばれる松果体の宮殿の門にあたるのですが
その門には沢山の封印がされています。

ではこの門を開く事無しに
松果体は開くのかと言うとやはり開きません。

それはあたかも開いたかのような
感じになるだけでエネルギーは
側頭葉の方に流れていくだけです。

そしてここが集合無意識に入るのか
超意識に入るのかの分かれ目になります。

今回のクラスでは前回のハートワーク
蓮華奉献の流れを汲んだ上で
2日間かけて首、喉をアルケミーの
気脈を開いて行きます。

なおこのワークはシリーズ化していきます。
今回はヴィシュッダⅡになります。
ヴィシュッダⅠに参加されなかった方も
参加出来ます。

2/14(土)

12時半〜17時半

2/15(日)

12時半〜17時半

2日間3.7万円
1日2.7万円

お申し込みは
oshokrantiアットマークyahoo.co.jp
krantiまで



















ヴィシュッダⅠ@横浜終了。

首の封印というものは思ったよりも
根が深く
整体的には首は腰でもある。

なので首のリリースは腰のリリースでも
あるのだから
この間を繋ぐ背骨の細部を開くワークと
併用しながらでないと
簡単にエネルギーはオーバーフロー
しやすい。

首を壊すと全身に様々な形で
影響を与えますが
それは首が全身と深く
繋がっている経穴の集合体だからです。

また霊的視野の範囲を定めるのも
首です。

なので首を開く事なしに
松果体を開くと
その松果体で持って得たvisionは
客観的なものにはなり得ないのです。

それは常に自分の自我の偏向を
投影したものになります。

今回は前回の蓮華奉献のワークを
引き継ぎつつ
SWORDのアドバンスワークと共に
ヴィシュッダをやる流れになりました。

ヴィシュッダⅡは
来年2月になる予定です。

ご参加頂いた皆様ありがとうございました😊











祈りは喉のセンターに関係がある。

その体験は、子供が初めて母親の乳房を吸うときと、まったくよく似ている。

 あなたは何かを言うのではなくあなたは
何かを受け取るのだ。   
祈りは神の贈り物を受け取る用意が
できているということだ。 

それが喉のセンターにきたとき、それは祈りになる。 

人々は祈りを行っているが、彼らはなにが祈りなのかを知らない…… 

なぜなら、祈りは最も霊妙で、洗練された愛のかたちだからだ。 

もしあなたがハートのセンターを通って
進まなかったら、 祈りに達することはできない。

道はない。 

人はハートを経由してゆかねばならない。 
というのも、喉のセンターのせいで、それが喉のセンターに存在し、 喉のセンターで起こるために、人々は儀式をやりはじめたからだ。 

人々は祈りをつくった。彼らは主張する、
彼らは何かを言う。 

しかし、ただ喉のセンターを使って神に何かを言うだけでは、 祈っていることにはならない。 

祈りは喉のセンターに関係がある。 

しかし、それは言葉に表すこととしてではない。 

それはそのセンターにおける一つの体験だ。 

しかも、その体験は、子供が初めて母親の乳房を吸うときと、 まったくよく似ている。 

あなたは、何かを言うのではなく、
あなたは何かを受け取るのだ。 

祈りとは神に何かを言うことではなく、 
神から何かを受け取ることだ。 

神が母親に、母親の乳房になる。 
祈りは滋養だ。 
そう、それは喉のセンターに存在し、そこで起こる。 
というのも、喉のセンターは、
受け取るセンターだからだ。 

子供は空気を吸わなければならないし、 
それは喉のセンターを通して起こるから、 
喉のセンターが機能を始める最初のセンターになる。 

そして、彼はミルクを吸わなければならない。 
それは喉のセンターを通して起こる。 

祈りとは、まさに空気を、活力を吸うようなものか、 
あるいは母親の乳房でミルクを吸うようなものだ。 

イエスが、こう言うのはそのためだ…… 
「幼子のようにならない限り、私の神の王国に入ることはできない」 
彼は喉のセンターについて言っている。 

しかし、キリスト教徒は完全に
それを見失ってしまった。 
彼は、再び幼子になって喉のセンターから
生というエネルギーを 
再び吸い始めるようにと、象徴的に言っている。 

今度は、もちろんその乳房は眼に見えないし、ミルクも眼に見えない。 

あなたは祈っている人を見守ったことがあるだろう?  
……どんなに彼が恩恵に浴しているように
見えることか。 

どんなに平和に満ちていることか、 
どんなに家庭的で、どんなにくつろいで見えることか。 

ミルクを吸っている幼子を見守るといい。 
その口に乳首をくわえたまま眠り込み、 
母親の乳房の上で安らいで、寝入っている……。 

その子供の顔を見守ると、 
それこそ喉のセンターに達し、 
祈りが生じたときの聖者の顔だ。 

祈りとは、あなたが神をどうにかすることではない。 
祈りとは、神があなたをどうにかするのを
あなたが許すことだ。 

祈りは受容的なものだ。 

それはあなたの側の行為ではなく、 
受け身となって歓び迎え入れることだ。 

祈りは神に何かを言うことではない。 
逆に、神を聴き取ることだ。 

それは〈神〉の贈り物を受け取る用意が
できていることだ。 

あなたには自分自身の考えがあり、自分自身の計画があるから、 〈彼〉の贈り物を受け取るのは
ひじょうにむづかしい。 
あなたは〈彼〉に「これをやってください、そうしたら、 わたしは幸福になるでしょう」
と言い続け、正しい道を示し続ける。 

「人が提案し、神が棄却する」という格言がある。 
これはただただ愚かで、まったくもって馬鹿げている。 

実情はまさにその逆だ。 
「神が提案し、人間が棄却しつづけている」 

……なぜなら、あなたは自分自身の計画を
持っているからだ。 
あなたは決して〈彼〉を聴き入れない。 

〈彼〉より自分の方が賢明だと考えている。 
あなたは〈彼〉に 
「これをやって、あれはやらないでください」と助言しつづける 

……それこそあなたが、祈りのなかで
やっていることだ。 
本当の祈りは、深い謝恩と感謝以外に
どんな助言もしない。 

それは神が注いでいるものならなんであろうと
ただ受け容れる。 
祈りとは、贈り物を受け取ることだ。 

しかし、それは喉のセンターで起こる、 

愛の最も高いかたちだ。 

そしてあなたがなおいっそう高くゆくと、 

そのときには第七のセンター、“サハスラーラ”で、 

サマーディが、究極のエクスタシーが起こる。 

そこでは探求者が探求のなかに失われ、 

そこではあなたがもう自分自身ではなく、 

そこでは神とあなたが境界を失って、一つになる。


OSHO


ワクワク4回打って肺癌ステージ4になってしまった生徒さん。まさかウチに来てる人でワクワクしてる人がいるはずないと思ってたけどいるんだよね、これが。





別の生徒さんでワクワク2回打ってウチのワーク受けて下痢が止まらなくなってさすがに下痢止めの薬飲んだなんて話もありましたが、ワクワク4回の生徒さんはウチのマントラと毒出しのワークと老師のヒーリングとお祈りと現代医療で腫瘍は小さくなったみたいだけど、まだワーク受けに来ますかねって位、熱心。





ウチの超地味な下位身体のワークをひたすら。ホント良くやりますわ。キッチリ完治するのを祈るばかり。ところで、肺にはスティービーワンダーの音楽が効くとチベタンパルシングヨガでは習いました。