□■海と山と生活と法律家への道程と■□


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■ずいぶん放置したものだ■

今シーズンで2年連続雪山に行っていません。

最後に行ったシーズンも、2回くらいしか滑っていません。


ボードはずっと、保存用ワックスに保護されたままです。


今年は雪が豊富だそうで。

ニュースの天気予報背景に写るゲレンデを見ては悲しくなります。

あと1年の我慢。


新司法試験まで残すところあと118日です。

昨年の反省を生かして、今年は短答模試なんかを定期的に受けていますが、10月で上位1割、12月で上位2割前後と、やや後退気味なのが心配です。

大学院を卒業して、何の価値があるのか未だ分からない博士号を取得しましたが…。定期テストがない分、論文(というか本気で書く答案)の枚数が減っているのも心配です。


30代になって、自分の生きてきた時間や出会った人をじんわりと思い出したり考えたりできるようになりました。

いいときもわるいときも、いい出会いもそうでないものも、全て今の自分を構成する大切なモノなのだと。

日本人男性の平均年齢が80歳程度だとすると、ちょうど40歳が折り返し。

もしも60台で死んでしまうと…今日が折り返しになるのかもしれません。

いや、もしかしたらもっと前に、折り返しちゃっているのかも…。。。


怖い話です(笑)


いずれにしても、死んでみないといつが折り返しだったかなんて分からないし、むしろ逆算して初めて分かるのが通常なのでしょうが

だいたいこの辺という数字には近づいているので毎日を大切につかいたいなと思っています。


残された時間は多いようで少ない。


またまた怖い話です(笑)


毎日を明るく楽しく元気よく過ごすために、今すべきことに真摯に向き合いたいなというのが今の目標であり怠惰な自分に対する切なる願いです。

■おもうこと■

文句を言っても仕方がないことがある。

むしろ、仕方がないというよりは無駄という言葉が適切なのかもしれない。


例えば新司法試験制度。

合格者を増やす代わりにロースクール卒業を準義務化するという制度。

設立当初は8割合格が目安という、まるで法曹資格のバーゲンセールが始まるかのような盛り上がりを見せていたこの制度も、1回目の試験から画餅であることが露呈した。


もっとも、どんなバカでも卒業したら法曹資格が「もらえる」なんて制度はあまりに危険だけど、結局今の制度ではロースクール教育が予備校と変わらないような気がする。

実務を学ぶ?

そんなことをしていて合格できる試験ではない。


人はいろいろなものを選べずに生まれてくる。

親を選べない。

国を選べない。

性別も選べない。

そして、当然時代も選べない。


それでも人は生きなければならず、諦めるのではなく上手に選択するしかないのだと思う。


幸せな人生という、文字にしてたった5文字の、人間にとって大きな大きな壁は、自分で見つけるしかなく、それはいつどこにどのように生まれても同じことなのだと思う。


世の中がおかしいなんて言葉をよく聞くようになった。

国家資格試験である司法試験も十分おかしな制度になっているけど、もっと視野を広げて考えても「どこかおかしい」と感じることは多い。


毎日沢山の人が死ぬ。

刑事政策上、日本では年間1300人が殺人によって死んでいて、これは別にここ数年で増加したわけでも、地球規模で考えても特別多いわけではないそうだが、最近目立つのは動機が分からない殺人。

人が人を思いやれなくなっている気がする。

自分だけがよければいいという志向が、過度に進行していないだろうか。

自分の人生に悲観して人を殺してしまうことと、電車で席を譲れないことは、そんなに違いのない行動なのではないかと感じる。

自己犠牲が正しいというわけでも、社会奉仕こそが望ましいというわけではないと思う。

人は自分を大切にできなければ、誰かを大切にすることはできないのだから、究極には自己犠牲と自己実現は対極にあるのかもしれない。

でも、どちらかに偏ることもまた正しいとは思えない。


周りがどうであれ、どんな時代であれ、自分が誠実に生きればきっと・・・と

胸を張って言えるのだろうか。


いつか君に人生を語る。そんな日が来たら、胸を張って『安心しろ』と言えるようになっていたい。

■あぁ、そうだね■

生き物は必ず死んじゃうわけ。

それは人だって同じこと。


ある本に、死ぬということは四通りしかないと書いてあった。

自殺・他殺・事故・病気


確かにそうだ。

老衰ってのを病気の概念に当てはめたら(結局のところ肉体的な限界ってことで)

たったの四通りしかない。


「死」という結末に集約すれば

結局行き着く先は一つしかないわけ。


生きるということは死ぬということと表裏一体の関係にあって

誰しも平等に死というものを秘めながら生きているからこそ

生きていることに意味を感じるのではないだろうか。


いつか、必ず死んでしまうからこそ

生きている今を精一杯頑張りたいと思うのではないだろうか。


■さてさて■

昨日実家の猫が逝った。
18年前、まだ小学校入りたての妹が拾ってきた三毛猫だった。
それまでも、幾度となく猫を拾っては、飼える人を探してきたが…念願叶って初めて我が家の一員に昇格した。

猫を飼うのは本当に初めてで、既に三人もジャリンコがいた両親としても異例の決断だったのではなかろうか。
ただ、三毛猫の前に拾ってきたトラ猫を託した飼い主が、不注意(故意と同視しうる重過失)により、彼を事故で死に至らしめたことも大きな要因であったろう。

それでも、猫のトイレや砂や早速おもちゃを一緒に買いに行った父が楽しそうで、家族全員がウキウキしたウィルスに感染していたなぁと思う。
家で飼われる猫の生態を誰もがよく知らなかったことを幸いに、5月に来たから『メイ』と安直かつ時代を感じる名前で呼ばれ始めた彼女は、驚くほど強く育った。
体が強い訳ではない、事実、ベランダから転落して気胸になったらしい大失態を始めとして、大病はなかったものの、それなりに動物病院にもお世話になってるし。

やたらと強かったのは『気』だった。
常に他には威嚇を繰り返す彼女を『メミ』ちゃんは強いわねぇと、コロコロ笑って喜び育てた母のおかげで、最終的には獣医にまでお断りされる、強すぎる猫になった。

成猫期には小さな頭にがっちりとした体格を艶のある三毛で覆う、立派な日本猫だった。

■さてさて その2■
さて、そんなメイちゃんと僕との関係は、飼い始めは毎日『まだいる!?』と、学校から慌てて帰宅したりしたものの、多感な時期には家にいる時間も激減し
最近では母が諦めた爪切りにチャレンジした位しか、まともに触った記憶がない。
そもそも、家族ではないとみなされるのが早く、気高い猫様は僕が触れることを許さなかった(笑)


それでも、淋しいね。

箱の中で小さく眠る彼女の軽さに驚いた。
少しだけ手を触れて、何回か。
触られるの嫌かなぁ・・・と、彼女の、ペットとしては大失格の孤高さを尊厳しようと思った。

生き物との、時には物との出会いに特別な意味を求めるのは人間だけかもしれない。
でも、だからこそ、あえて特別だったと思うのが人間なんだろう。
生き物と暮らすということ。
名前のない生き物に、名前をつけ、安全と引き換えに自由な世界を奪うこと。
そして、きちんと最期の時まで責任を持つこと。
我が家で初めて名前を付けられた、初めての彼女との出会いは、本当にたくさんのことを学んだなぁと思う。

18年前、飢えか、天敵からの攻撃か、原因は分からないけど
ひっそりと死んでいたであろう彼女は、昨日両親に見守られ、人の手の暖かさを感じながら去って逝った。

うん。
よかったよ。

寝ているようにしか見えないと、いつもより口数少ない両親からの言葉。
眠るように、ちゃんと看取られたのは、大切に暮らしてきただからだと思うよ。

彼女が家族の一員となった記念すべき日も、天気のいい日だったかなぁと思いながら
近所で一緒に拾われた白黒の兄弟はどうしたかなぁと。

■うわ、久々やん■

4月です。

更新ずいぶんサボりました。

ミクシィの方は多少書いていたのですが、ボードにゴルフに・・・と多忙で

特に三月後半から四月頭にかけては大忙しでした。


さて、ローの二年目が始まって1週間が過ぎました。

今年は勉強すると宣言した以上、きちんと予習とかしないとなぁ・・・


ってことで、多少更新は減るかもですが、このブログも生き返ってもらいます(笑)

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