□■海と山と生活と法律家への道程と■□ -2ページ目

■引越し屋さん■

僕の妹は現在シルバーアクセサリーの専門学校に通っているのですが、この度自宅でも本格的に作業がしたいと・・・

作業机の払い下げをしてもらうことになりました。


で、昨日机を実家に運んだのですが・・・



重い。


マジで重い。


運び出した製作工場(?)からは、そこに通っている若い男の子が数人で車に乗せてくれたのですが

ふと、実家でおろすのも運ぶのも男手は僕一人でした。。。


聞くところによると総重量60㌔だとか。

確かに持てない重さではないのですが、形がやっかい。


天板の下に棚がついていて担ぐこともできず

更には奥行き40センチくらいだったはずが、妹のミスで60センチほどであることが発覚し

半地下四階建てメゾネットタイプの実家の二階に運ぶには階段を通らねばならないところ・・・

なんと階段の幅とほぼ同じ。

つまり、斜めにできないのです。。。


結局妻の手助けを受けて、落下⇒転落死の恐怖と戦いながら何とか運び込みに成功しました。


で、本日。

朝から体が痛くて死にそうです(苦笑)

■残念な事故■

昨日マウントジーンズ那須でスノーボーダーの事故があったようです。


ゲレンデ脇にあった直径40センチほどの樹木に激突した男性が亡くなってしまいました。

報道をみると、確かにゲレンデの両脇に柵もなく、ゲレンデ脇というよりはゲレンデ内に木が立っているという感じです。

景観としては、ゲレンデは開放的に見えますが、やはり接触の危険はあったのだろうなと思いました。


ただし、そのコースは緩斜面で、どちらかというと初心者向けのコースのようでした。

あまり速度を出さないことを前提として、ゲレンデ側の危機管理としては気に激突することを想定していなかったのかも知れません。


激突の原因は、コース真ん中で座っていた人を避けるためにコース脇に避けたとも言われていますが・・・。


スノーボードもスキーも、危険なスポーツだと思います。

きちんとルールやマナーを守らないと、自分が怪我をするだけではなくほかの人にも迷惑をかける蓋然性が高いスポーツだと思います。


コースの真ん中で座って談笑をしていれば、後ろから来る人にひかれてしまうかもしれないし

避けようとした人が怪我をしてしまうかもしれません。

逆に、初心者や家族・子どもが多いコースでスピードを出せば、確かに自分は気持ちいいのかもしれませんが、接触の危険が高いことは疑う余地が無いと思います。


スノーボードのフィルムなんかを観てると、最近はツリーランなんかもよくあります。

コース外滑走なんかも自己責任ではありますが気軽にするものでもないと思います。


安全にスポーツをするということは、決してめんどくさい規制に縛られなければならないということでは無いと思います。

楽しく遊ぶことを最優先したら、必然的に安全性は高くなると思うのです。

今年は暖冬で、早くも雪がゲレンデから消えつつあります。

残り少ない今シーズンを楽しく過ごしたいですね。

■模擬裁判■

来週学部の頃に所属していたゼミが模擬裁判を行うらしい。


教育法ゼミということで、学校給食で出されたそばが原因でアレルギーを起こし死亡した少年の事件を元に行うのであるが

これは昨年から継続して研究(?)してきた事件。

どのような発表になるのか楽しみである。



■久々に変更■

久々にスキン変更してみました(笑)


背景よく見ると紅葉だったため(銀杏)、暖冬で雪が少ない今年の冬、せめてブログ内だけでも・・・ということで

遅ればせながらウィンターバージョンに変更です(・・・もう、春のような毎日ですが)


トップの写真は、部屋から見える木に積もった雪です。

自分で撮影したのですが・・・(昨年)今年は一切東京で雪を見ていないことを改めて再確認する結果となりました。


確かに、都内で寒いのは嫌だし(基本夏が好きです)

雪の降る地方の方々は毎年雪による災害の危険と戦ってきている訳ですから、雪が少ないことを嬉しく思う方も少なくないのでしょうが・・・

スキー場を始めとする雪に関わる仕事をしている方にとっては痛い暖冬なのではないでしょうか。


地球規模で危惧されている温暖化現象。

もっともCO2排出を削減すべき例の国は、例の議定書に批准をしないで今日も地球の温度を上げています。


しかしながら(多少無関係に)モラルハザードという言葉をよく聞くようになりましたが、海の向こうの国だけでなく、身近なところにも究極的に自己利益だけを追求する輩は多く存在しているのではないでしょうか。


(モラルハザードという言葉は「倫理欠如」即ち「社会全体の利益を考えずに、自分の利益だけを追求すること」として多用されているため、かかる解釈に乗っかりましたが、本来の語意とは異なるようです。・・・あしからず)

■刑法39条に思う■

刑法第39条1項

 心神喪失者の行為は、罰しない。


人が人を裁く大前提のルールとして、責任能力の無い者は罰しないという規定である。

人間界において罪を問えるのは、自己の行動につき責任を有する者であるということは、確かに正しいのかもしれない。

自分が何をしているか(したか)分からないような者を裁くことはできないからである。


しかし、法は解釈として原因において自由な行為という理論を積み上げた。

アルコールや薬物で酩酊状態で罪を犯した者を罰するための理論である。

殺人の勢い付けのために、事前に飲酒・薬物などにより心神喪失ないし耗弱状態を作出した者を39条1項2項で不可罰、刑の軽減をすることが妥当でないことから、かかる理論は提唱されたわけである。


それならば、そもそも39条は必要なのであろうか。。。


人を殺す瞬間、多くの人は心神喪失ないし耗弱状態なのではなかろうか。

病的なもの(?)と、瞬間的な喪失をいかに判断しているのかを考えると、それは通院歴であり、事後の調査である。

そしてその境界は、果たしてどこまで明確に判断できるのだろうか。


ここに、精神鑑定とその他の鑑定に大きな違いがある。

DNA鑑定やポリグラフなどは、どの調査官が行っても同じ結果が得られることが証拠採用の条件である。

精神鑑定はどうだろう。。。


医師により行われる鑑定であって、結果は一律とは限らないようである。


このような鑑定の証拠能力・・・というか、裁判官の心証形成に大いなる疑問を感じることは判例を見ていても少なくない。


しかしながら、39条がなくなればいいと安直に願うわけではない。

責任能力の無い者を罰することができないということは、近代刑法の原則の一つであり、いかなる者も罰するべきであるとすることはまた、妥当では無いからである。

だからこそ、裁判官はできるだけ正しい判断をできるものが任官されるべきなのだろうと思う。


司法はこれから大きく変わろうとしている。

裁判員制度が導入され、法律を知らない者が裁判に参加するようになる。

裁判官でさえ、人間であるから、違法にとられた自白を真実であると誤認する可能性はある。

起訴状に本来書いてはならないこと(例えば前科とか・・・)があれば、そこで心証形成がなされる可能性は大いにありえる。

それは、たとえ後に弁護人が証拠能力に反対をしても、そして証拠として用いられることがなくても、危険は存在する。

この点裁判官は「プロ」だから、その違法な証拠を「なかったもの」として心証形成できるとされているが

今後一般の方が参加して、「これこれの証拠は証拠能力がなくなりました・・・。」と聞いたところで、その記憶をすっかり失して判断ができるのだろうか。

弁護人からの不同意前提で、とりあえず裁判員に「聞かせる」ために検察が違法な証拠を出しちゃったら、それは実質証拠能力が認められたと同じことになるのでは無いだろうか。


更に、被害者が法廷で発言できるようになる。

裁判員は、被害者が被告人を指差し、「こいつのせいで!!!」などと涙ながらに訴えたら、その瞬間にその「被告人」こそが犯人であると確信するのではないだろうか。

人の記憶は曖昧である。

被害者も、無関係の誰かを陥れようと考えているのではなくても、無罪の彼を犯人だと確信する可能性はあると思う。


より一層、法律を国民が学ぶ必要があるし

裁判官をはじめとする法曹は、法律だけを学んでも意味が無いと思う。


そもそも、高校を卒業して、国立大学法学部に行って現役で司法試験に受かった優秀な法曹は社会の実態というものをどれだけ理解して紛争解決に臨んでいるのだろうか。

優秀な人が優秀な法曹ではないと、ちょっと羨ましく感じながらもそう思う。




しかしながら・・・

人を殺してしまった後に、全裸で町を彷徨ったら無罪になる。

残虐なら残虐なほど罰するべきなのに、知り合いよりも不特定多数の命を奪い(計画性が無いと判断されるから)、そして異常な行動をとればとるほどに無罪に近づく(決して無罪に『なる』のではないから)というもの、被害者感情としては許せないのも事実ではないだろうか。