当ブログでミゾをほじくるうちに、たぶん耳通りが良くなります。
白のグラデーション
テレビは「シロ」と「クロ」の間のグレーな部分を引き受けてきた、という。
で、今のテレビは公共性が叫ばれ、どんどん漂白されていると。
そう思う。
でもよく考えたら、自分がよく見ていたテレビは、
もうそこまでグレーでもなかったかもしれない。
割ともう白かった気が…
白い番組しか知らない世代のテレビの作り方を模索する?必要があるのか。
やなとこばかり見える
「自省録」「ソクラテスの弁明」を漫画で読む。
「自省録」は、こんなに事実の列挙だったっけ?という印象。
局面局面でのコメントがちょっと哲学風味だ、というだけに見えてしまった。
皇帝のキャラは好き。
「ソクラテスの弁明」は、なんかソクラテスが微妙に見えてしまう。
アテナイの狭い世界で吠えているだけの人で、
周りをとりあえず蹴散らせば良くて、
その理論には普遍性がなさそうだなあ、という印象だけが強くなった。
決して嫌いではないのだが…
考えよ
ひたすら受け身になって種々のニュースを見流し、
自分の意見も付 け加える事もなく、なんとなくそれらが過ぎ去ってゆく。
「留める」という作業が必要なのだろう。
自分の琴線に触れたものを「留め」、掘り下げる作業。
すなわち編集にも同じ事が言える。
自分にはそれが足りないのだ。
すべてが自分の前を通り過ぎて行く。
それでは自分の存在意義はない。置物でしかない。
今日は
10:00から河原で酒を飲み、
12:00にコンビニでチキンを買って河原で酒を飲み、
14:00にドリトス(輸入)を買って河原で酒を飲み、
18:00まで床で寝て、
20:00からイカフライを買って家で酒を飲んでいる。
酒こそあれ気分は良くない。
彼女とギクシャクしているからである。
直そうと思っているのではない。
滑らかに、角を取りたいだけなのに。
色んな意味でマイ旬な言い訳
半年以上ここに何も書いていないので、徐々にこのブログとも気まずくなっているような気もしないではない。
最近諸事情により必要に迫られてるので、コミュニケーションについて考える事が多い。
コミュニケーションにはする事自体に間接的意味があるので、
たとえコミュニケーションに内容がなくとも、繋がっている事・チャンネルを合わせている事が内容以上に大事だったりするらしい。
だとすればまあ、そりゃこのブログと気まずくもなるだろう。
手抜き偽装式モダニズム丸出しのタイトルで幕を開けるエントリーがぽつぽつ、では疎遠になるのもいたしかたない。
しかし実際問題、文体とか内容があんまり自分の敏感肌に合わない感じがするブログになってきているのも事実であるので、
自分の方からも避けてしまっていたかもしれない。
早い話、人に見せられる範囲で日記やら感想やら書こうとするとまあ、しんどいと。
かといってがっつりウソは書けない四角いアタマなので逼塞してしまうと。
小学校の読書感想文の時を思い出す。というか全く同じ条件を出されているような気さえする。
あれだって別に何でもアリならいくらでも書けたのに。
で、書いたものを見て大人が適宜直していけばよかったんじゃなかろうか。
実際大人の世界内だっていきなり納品というのはかなり非現実的なものである。
何回かチェックやテストを経て世に出るわけだから。
それなのに此処は下書きこそあれ、ぶっつけ発信である。
パブリックな用件でメーリス回す時でさえあんなにオドオドする者が、
自分のプライベートを即張りご開帳なわけで、
それは結構負担に感じる事もあっても仕方ないわけで。
こんだけ言い訳しときゃいいだろう。世界の皆様良いお年を。
060416
企画書の方はメドが立った模様。内容ともかく、見た目スッキリしてる事に満悦です。
最近夢が面白くて起きるのが嫌になる。
今日は犬歯が欠けて中から一回り小さい前歯が出てくる夢と、
障害者で手の無い人とか身体が欠けている人を見るのは少し怖いけど、それは「死が怖い」の少し手軽なバージョンなんだから、その怖さは小さな葬儀みたいなもんを行えば軽減されるだろう、と熱弁をふるう夢。
眠りが浅いのか、けっこう内容を覚えてるし思考もリンクしたりするのがますます面白い。
一回、考えた人が必ず夢に出てくる的な状況になって凄いエキサイトしたこともあり。明晰夢近し。
現実は晴れて留年生(腫れて瘤粘性)なので、大して面白くない日々です。
周りが卒業しちゃったことが年寄りの筋肉痛みたいに今更実感になってどっときました。
思えば卒業式のあのテンションも、それを早くから身体が察知していたんだと思います。
彼女も社会人ってヤツですからね…
後ろを振り返るか、飛んで夢見てるかじゃ足元がおぼつかないのは当然かもしれん。
060411
とある企画書が自身に課せられてしまって、無限ループのような考え中。
こういう時は袈裟まで憎く、そもそもの「企画書」なるやり方自体にまで文句を付けたくなる。
企画書は紙にインクを乗せる、もしくは0と1の電気信号からなる書面、いわゆるテクストなので、
企画する側とされる側の間のコミュニケーションがいかんせん無機的になってしまう。
そのため、どうしても内容が当初より一歩後退の保守的で、かつ理詰めで相手を説得するような文章で企画を出してしまいがちである。
しかしけっこう面白い企画は水物というか、そもそも面白い事を「これは面白い事です」と言う事自体がある程度つまらない事であり割引シールを貼ってしまう行為なので、本当は始めから相手に面と向かって情熱で押し出したいものだと自分は思う。しかし相手が一人でふんぞり返って企画書を読むスタイルではそれは大変難しい。かといって企画書を出さずに直談判を申し出る者もその時点でちょっとイタいな、という事で面白さに減点が入ってしまう。
もちろん出来る事なら企画書にそういった情熱を出せればいいのだが、情熱的な企画書というのはどうもウソ臭くイタイタしくなる危険に包囲されており、包囲網を切り抜けるには計り知れぬテクを要する。
教科書とか論文が何故くどくて内容が取りづらい文章になるか、を考えた時にあれは言い残しの可能性を最低限に抑えるため、考えられるあらゆる可能性に言及しようとする向きがあるからだと思う。でないと読み手・書き手双方の主観を排除した客観的・論理的で偏りのない説明は出来ないからであろう。
これと似たように、企画書でも相手の誤解やツッコミを防御しようとあらゆる理屈を付けようとするため、内容に関わらず結果として相手につまんない印象を与えてしまう事が多い。
かといって理屈抜きの文章だと相手にどう解釈されるかの予想がつかないため、誤解を招きやすいし、自分としても書いた後に土留め色した不安がやってくる。
まあ出口のない話。でもいつの日かここが上手い事解決されれば、面白い事を考える以外の雑事「どう伝えよう」に気を回さずに済むんだから、企画→実行までかなりスムーズに仕事が進むような気がする。
というか、雑事によって鮮度を失わない産直ルートが開通するようなものだから、脳内の企画の再現度も上がるんじゃなかろうか。出口のない話に非常口をつくって逃げる。
060310
昨日はクラス会があった。
たらふく飲み過ぎておかしくなる。
何故か新宿から渋谷まで歩いていた。人力ワープである。
完全に終電を逃し、渋谷でおさまり処を探す。
結局喫茶店で紅茶とホットドッグを注文、R25を読みつつ夜更かし。
紅茶は2杯分ポットに入ってたし、ホットドッグにはポテチが付いてきて、長時間滞在に丁度よかった。
始発で帰りたっぷり寝て起きたところへ電話。急遽バイトに借り出される。
くさぐさの相談事を受けたりする。
和風ドリトス・こんがり醤油味が旨い。ちょっととり皮っぽい。
うまいもんを発表し続けるのもきっと楽ではないだろう。
復活あぐねて
私の中では最もタチの悪いカップルが近辺にいます。どっちも世の中から消えても惜しくないほどの。
何故そんなに自分にさげすまれるかと言うと、
各自くさぐさのセンスが皆無なのにちょいえらぶり腐れ評論ごっこをしている、という点に尽きます。
「計算された面白さ」ではなく、「頭のねじが1本はずれたような面白さ」のが好き、みたいな事言うわけです。
かたや「メタ的な面白さ」、みたいな事言うわけです。揃いも揃って。言いたくないけどいずれいずこで死ね。
それは判別しにくいだろうけど状況の違いでしかなく。
実際本当に凄いのは、笑わせ手が計算して、笑う相手も計算してるな、と分かってて、それでもなお笑っちゃうんだ、と言う事だと思います。ほんと当たり前だけど。
ほんとイタいんですよねぇ。特に男の方。女の方にはどんどん伝染ってきて。
あと、私事ですが就職が決まりました。だからこんな書き物も復活するわけです。
存分に卒業まで残り時間を嘗め尽くす事にします。
Dugout / シェリーに首ったけ
何でこれ買ったんだろう。
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Dugout
聴いてて徐々に凹んだ。悪くはなくて、全然不合格にする要素はないんだけど、
でもなぜか武道館でジャミロクワイ聴いたら・・・やっぱ4曲1260円は高いだろうと思えてきた。
あと、特典のメガネが自由落下遊戯機械級落差的期待外必然悲観窮状だったので、
ある意味あっちの思惑通りだった自分をイタんで(新語)の評価でもある。
まあ、まあまあぐらい。中古で欲しかったなあ。
