どうも○○になったつもり、理解したつもりはよくないなと感じる。


子供の気持ちになったつもり

相手の気持ちを理解したつもり

できたつもり

などなど。


自分は自分であって、他人ではない。

このつもりが出てきてしまった時点で相手のことを理解することをやめてしまうようなきがする。

面倒だからこれ以上考えずに思考停止してしまって楽になろうという感じがする。


しかし、つもりがでてくると相手との理解度合いのギャップが生じることになり、

そのギャップが大きいほどコントロールや攻撃することになる。

例え自分がその「つもり」がなくても相手がそう感じてしまったら嫌な気持ちになるだろう。


逆にいえば、その「つもり」を自分がしてしまったのだから、

相手も自分のことを理解した「つもり」で対応してきても何も言えない。


つもりが積もってどうにもならなくなってしまう前にきちんと対話するということも大切だと感じる。

今回は運動不足が良くない理由について自分なりに考えてみる。


○ その1


代謝が減ることによって太りやすくなる。

太ると体が重くなる。


○ その2


筋肉が硬くなりやすくなる。

筋肉が硬くなると、血管・神経・リンパ管などが圧迫され、

必要な栄養が運ばれなかったり、鈍痛を感じたり、体が不調になったり、免疫力がさがりやすくなる。


○ その3


その1、その2によって体が重く感じるようになり、動くことが億劫にになる。

それによってさらに運動不足になるという悪循環に陥る。



■ 対策


週に○時間運動するというのでも続けられるなら良いと思うが、

現代では、仕事優先の人が多く何か急に忙しくなるとその時間がなくなってしまうことも多々ある。

また、体をあまり動かさずにすむものが多く、これも運動不足になりやすい。


それならば毎日十分でもいいから意識的に動くようにする。

生活習慣に運動を取り入れるようにする。

これならば、忙しくても生活の中に溶け込んでいるので運動不足が少しは解消できる。


例えば、

・エレベーターやエスカレーターは使わずに階段にする。

・近くにいくのならば車ではなく自転車や徒歩にする。

・電車やバスでは座らずに立つ。

・食事にはちょっと足を延ばしていつもと違った店にいってみる。

・いつもとは違った道をいってみる。

などなど


もちろんもっと意識的に運動を取り入れるといいのは言うまでもないが。


何故こういうことをするかというと、自分の体は誰かに代わってもらうことができないからだ。

だから、自分の体には自分で責任を持たないといけない。

病気になって苦しむのは何者でもない自分だ。文句をいっても何も変わらない。


車など何か文明的な道具を使って楽をすることもできる。

しかし、それによって自分の体が弱くなってしまったらどうだろうか?


そうならないように生活の中に必要最低限の運動をするという意識も必要なんじゃないかなと考える。

今回のタイトルは、よく使われる?ダジャレだが、
このダジャレに自然体のヒントが隠されているみたいだ。


何かと言うと「囲い」のことだ。
目に見える囲いであれば、あそこに囲いがあるなと気づくことは容易だが、
目に見えない囲いはなかなか気づくことができない。


例えば、名前が顕著だ。
日本の場合は、名字で呼ばれることが多いが、
この名字というのは家族という単位で囲まれている。


要するに家族に守られている。
だからこそ、家族に守られている状態では、ある程度家族に縛られることになる。
会社であれば「○○社の○○さん」と呼ばれ、それも会社に縛られている。


しかし囲いがある場合は自然体を阻害する。
親がダメだと言ったからといって自分の夢をあきらめることがあるし、
自分が家族のやりたいことを阻害する事もある。


もし、自分をなんらかの見えない囲いで囲んでいる場合は自然体にはなれない。
逆に自然体である場合は、なにも囲いがない状態と言える。


そのため、家族や会社など周りの事ばかり考えていると自然体にはなれない。
気持ちを休めるのであれば、周りや自分のことは何も考えず頭をからっぽにしたほうがいい。


しかし、頭がからっぽの状態で外に行くわけにはいかない。
外には危険がいっぱいでそれから身を守らないといけないから。


それ故に外でも自然体を発揮するには自分自身が強くなる必要がある。
囲いを「へ~」と眺めているだけでは単なる傍観者にしかなれない。
それでは、いつまで経っても囲いに囲まれた受身の人生を送ることになる。


それでは、自分の人生の主役を他人に譲るようなものだ。
自分の人生を実りあるものにするには、自分自身が主役になる必要がある。
自分が主役になるのであれば、幾多の困難を自分で乗り切らないといけない。


他人に頼ってばかりでは自分を強くすることはできない。
本当の意味での自立が出来た時に自然体の力が発揮され、
それによって周りの人を助ける力にもなるのではないかと考える。

日々を何気なく過ごしていると忘れてしまうこと。

今、生きているということさえ忘れてしまう。


悩んだり、考えたりしているのは生きているからできること。

これは紛れもない事実だ。


事実は変えようがないので、受け入れるしかない。

また過去の出来事も全て事実なので、受け入れるしかない。


事実は、頭で考えるものではなく、体で感じるもの。

考えようとすると答えのない質問にずっと囚われ続ける。


答えがないんだから、自分でこうだと決めればいい。

プラスにすることもできるし、マイナスにすることもできる。


しかし、過去を受け入れられていない場合は、その過去に捉われていて過去に生きることになる。

過去はもう過ぎ去ったことであり二度とやってこないため、時と場所も変わらない。

その受け入れていない過去を受け入れられるまで、同じ時間と場所に留まり先に進むことはできない。


そうすると目を前に移すことができず、常に足元にある石を磨き続けることになる。

その石を磨く時間が長い程、その石にかけた労力を惜しみそこから離れにくくなる。


傍からみればもっと魅力的な石が周りにあるようにみえても、それを客観的に判断することができなくなる。


過去を受け入れるかどうかは自分の選択次第。

今を生き、未来を明るいものにしたいのであれば、どんな過去でも全て受け入れるのがよさそうだ。

「やってみせ 言って聞かせて させてみて ほめてやらねば 人は動かじ」

「話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず」

「やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず」


「山本五十六」(2010年9月9日 (木) 23:57 版)『ウィキペディア日本語版』。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E4%BA%94%E5%8D%81%E5%85%AD


上は全部、山本五十六の言葉だが、これから学べることは沢山あるなと感じる。


これらをよく読んでみると、まず自分から動いている。自分の背中を人に見せることで多くを語っている。

子は親の背中を見て育つというが、仕事でもなんでも出来る人の背中をみて学ぶことは多いだろう。


言葉は言葉でしかない。

しかし、言葉では表せない事も体で表現する事はできる。


逆に体で表現できないことは身についていないと言うことだから、

いくら言葉でいっても絵に描いた餅であり、相手に見せることができない。


自分にできないことを他人にやらせるということは、

自分ではやらないけどやって貰おうと思うことであり、他人をコントロールすることにつながるだろう。


二人三脚でいくというのであれば分かるが、

上から目線で「あれやれ、これやれ」では嫌になってしまうだろう。




自分自身で感じていたことだが、何かうまくいかないときは

自分ではなくて他人の方をコントロールしようとしてしまう。

自分は悪くない、自分は正しいんだという考え方が先行してしまうようだ。


でもよくよく考えれば、自分が絶対に正しいことなんてない。

冷静に振り返ってみると自分が間違っているなんてことも多々ある。


今の自分を生きていない時は、周りの目を気にし過ぎてしまう。

それが結果的に自分を動かすのではなくて、周りの人を動かそうとする要因になっているのではないだろうか


ちょっと立ち止まって考えてみる。

自分に反発している人や自分が嫌な人に、自分の価値観を押しつけていないだろうか?



相手を変えようとするのではなく、まず自分の見方や手段を変えるのもいいのかもしれない。