私は安倍元首相の国葬に別に賛成でも反対でもないくらいに思ってますが、この国葬を反対デモが起こるくらい「こじらせて」しまった原因は間違いなく「スピード感のなさ」なのです。

エリザベス女王の国葬は死後11日くらいで行われている。エリザベス女王は高齢ですから、ずーっと前から国葬の準備が出来ていたからこそそんなに短期間で国葬が出来た。

これに対し、凶弾に倒れた安倍元首相の場合は話が急だから、そんなにすぐに国葬は出来ない。それはわかるけど、死後80日もたってからの国葬は遅すぎ、なのです。

80日の間に、いろいろ議論が起きてしまい、結局「国葬反対デモ」まで起こってしまった。せめて死後20日とか遅くとも30日くらいのうちに国葬を行っておけば、非道な暴力に倒れた元首相への弔意、暴力への毅然とした怒りと抗議、で国葬は反対論はあっても盛大に行われたことと思います。

しかし、今回の80日後は明らかに遅すぎで、もはや弔意を示す時期は過ぎてしまっている感じです。

国葬を行う準備に80日間もかかるのが「当然」の今の日本のシステムが、この国葬をダメにした、のです。吉田首相の時代なら、それで良かったでしょう。しかし、現代の日本は当時とは比較にならない規模でマスコミやインターネットが発達しているスピードの時代。その時代に80日後に国葬をやるとどうなるか、が今回の顛末です。

昭和の時代そのままのスビート感が維持されている日本の政治システムがいかにダメダメであるか、が明確に示されたのが今回の「安倍元首相国葬」なのです。

ロシアがウクライナに侵攻するのか?緊迫してますねー。
しかし、数年前のロシアのクリミア併合にせよ、今回のウクライナ侵攻にせよ、そんなことしたってロシアにはなんの得もないのです。
なにせウクライナは貧乏国。地下資源も産業もない。この国を併合しても、ロシアの利益は何もなく、逆に支出が増える。それでもウクライナを攻めるのは、「もともとここはロシア人の土地だ」とか「ウクライナがNATOに接近してロシアの安全保障を脅かす、生意気だ、俺たちはNATOなんかに舐められたままじゃいないよ」みたいな男のプライド、によるものです。
もちろん、ロシアにも、冷静に国益を考えてそんなくだらん事は止めよう、という人もいるはずです。しかしロシアはプーチンの独裁国家。そして独裁者プーチンを支持し支えてきたのは、プーチンの反対派の粛清とか人権弾圧を支持してきた「強いロシア」を標榜する保守強硬派。この強硬派が「生意気なウクライナなんかぶっ潰せ」と叫んでいるのに、プーチンが「まぁまぁ、ここは冷静に」とは言えないのです。そんなこと言ったら、自分の支持基盤の強硬派が「プーチンは弱腰になった」としてプーチンから離れる可能性がある。もっとより強硬派の政治家を支持し始める可能性が出てきます。そうなるとプーチン独裁が危うくなる。
権力から滑り落ちた独裁者の末路は、間違いなく牢獄です。これは歴史が証明している。プーチンは死ぬまで独裁者でなければ「まともな死に方は出来ない」のです。
だからこそ、なんの利益もない「ウクライナ侵攻」をやらざるを得ない。強硬派の支持を手離さないために、最も強硬な独裁者であり続けるしかないのです。

中国も一緒です。中国は、かつての毛沢東独裁がもたらした文化大革命が国をメチャクチャにした反省から、集団指導体制を取り、国家主席も任期制にした。しかし、習近平はそれを全部ひっくり返し、国家主席の任期制をやめて、自分の終身独裁体制を築き上げた。
この習近平を支え、支持しているのは、やはり強い中国を標榜する強硬派。
ウイグルの「虐殺」とまで言われる、宗教弾圧としてはかつての日本の過酷なキリシタン弾圧をも超えているイスラム教徒弾圧も、なにもあそこまでやる必要はないのです。しかし、「中国にイスラム教徒はいらない」と考える保守強硬派が行おうとする過酷な民族浄化を、習近平は止められない。もし習近平が弾圧を緩めるよう強硬派に指示するようなことがあれば、強硬派は反発し、最もコアな自分の支持基盤を敵に回すことになる。その小さな権力の綻びが、習近平の独裁者から追い落とすきっかけになりかねない。
独裁のために反対派を粛清してきた独裁者は、死ぬまで独裁者で無ければろくな死に方は出来ない。これが現実です。だからこそ、習近平は最も強硬な独裁者であり続けなければならないのです。
これが独裁者の末路。
醜い欲望の末路。恐ろしい事です。

私は週末テニスプレーヤーです。毎週プレーしてます。こうやって私がテニスすることで、「テニス産業」というものにお金を落とし、「テニス産業」という経済が回っていきます。私がテニスなんてやらないで家でボーっとしてたら、「テニス産業」にお金は落ちません。多くのテニスプレーヤーがテニスをやめて「家でボーっとしてる」ことを選んだら、「テニス産業」は衰退してしまいます。

私がテニスをプレーすることによって、「経済」が回るのです。

パラリンピックでやってた「パラスポーツ」も同じ。障がいのある人たちがスポーツすることで、「パラスポーツ産業」にお金が落ちて、「パラスポーツ産業」という経済が回っていきます。障がいのある人たちがスポーツしないで家でボーっとしてたら、「パラスポーツ産業」にお金は落ちません。

障がいのある人たちがスポーツをすることによって「経済」が回るのです。

かくして、オリンピックだけやるより、パラリンピックもやったほうが、「儲かる」とてもわかりやすい話です。

 

障がいのある人が家でボーっとしてるんじゃなくて、働いてもらうのも、経済を回していく上でとても良いですから、障がいのある人をどんどん会社が雇用していくシステムを作るのも、「経済」を回していく上でとても重要です。障がいのある人が自分で稼いでスポーツに取り組んでくれれば、障がいのある人が家でボーっとしてるより、「経済」はどんどん回ります。

また、障がいのある人が働きやすい環境、障がいのある人がスポーツしやすい環境を作ることが、社会のイノベーションにつながっていきます。

先進国社会で「多様性」がキーワードになっているのは、「多様性」を大切にする社会の方が、そうでない社会より「経済」がより良く回るからです。イノベーションにもつながるからです。

 

一定の経済発展を経て、人口も増えなくなった「成熟した先進国社会」においては、放っておくと経済発展が停滞し、じりじりと貧しくなっていきます。今の日本がまさしくそれで、「ジリ貧」な感じは皆さん抱いていると思います。

そういう「成熟した先進国社会」がさらなる経済発展をするためには「多様性」を大切にすることが重要になってきます。今まで「家でボーっとしてた人たち」が社会に出て、お金を稼いだり使ったりすることで「経済」が回る、こういった「経済の活性化」は「成熟した先進国社会」においては、「ジリ貧」を防ぐために必須のものとなるのです。

なので「障がいのある人」だけでなく、女性やLGBTQやそういったマイノリティーだった人たちが社会進出すること、すべての「多様性」が大切にされることが「経済の活性化」にとっては重要なことになります。

 

中国のような「成熟した先進国社会」ではない、単線的な経済発展路線をまっしぐらに進む社会においては、「多様性」は大切にされません。全員を画一的な枠にはめ込んだ方が効率よく経済発展できます。かつての日本もそうでした。日本の「画一化」を目指す教育システムや社会システムが、日本社会の飛躍的な経済発展をもたらしたのです。

日本の場合、まだその「飛躍的経済発展」の夢から醒めていません。私たち自身の多くが「画一的」な社会による飛躍的経済発展をいまだ夢見ています。

しかし日本の社会はすでに「成熟した先進国社会」なのです。中国とは違います。人口も増えず、給料も安くない。そんな社会が経済発展するためには、「多様性」を大切にする社会であることが絶対に必要になります。「家でボーっとしてる人」を減らさないと経済発展できないのです。イノベーションも生まれないのです。近い将来、中国も必ずそうなります。

 

「やまゆり園」の事件を思い出します。

犯人は、重度心身障がい者は生きていても価値がないので、その人たちを生かしておくためにお金を使うよりも他の困っている人にもっとお金を使うべきだ、という論理で、障がいのある人たちを殺害しました。

これについては以前にも書きました。

 

 

「成熟した先進国社会」においては、重度心身障がい者もまた、「経済」を回すサイクルの重要なプレーヤーなのです。彼らが人間らしく生活できるような社会的努力がされることによって、社会の経済はよりよく回っていきます。彼らを抹殺してしまうのは、経済社会にとって大きな損失なのです。

彼らが「生きてよりよい生活をする」ことが、「経済」を回し、社会全体の経済的利益をもたらす。日本社会の発展をもたらす。

彼らの「多様性」を大切にすることが、日本経済の発展に寄与するのです。

私は、よく巨大なキャスター付きバッグに重い荷物を入れて、都内を電車で移動しています。時には、その重くて巨大なバッグを持って、階段の上り下りをしなくてはならない時があります。はっきりいって、すごく大変です。上りはゼイゼイ言いますし、下りだと、もしここで足が絡まって荷物ごと転倒したら、足を骨折するだろうな、という恐怖に駆られながら降りてます。

もちろん、誰も手助けなんてしてくれません。ときどき「お手伝いしましょうか」と声をかけてくれるのは、全員「欧米人」です。欧米では、こういう時、誰かが手助けするのが当たり前、だそうです。私たちの社会では、「キャスター付きバッグを持ってる人は、他人に迷惑をかけないように行動してください」というマナーポスターが貼ってあるように、重い荷物を持った人をみんなが手助けするどころか、重い荷物を持った人は周りに迷惑をかけないように気をつけなさい、というのが「常識」です。

 

かくして、私は誰も手助けしてくれないどころか、私が重い荷物を持って階段を上り下りしている傍を、なにか迷惑そうに通り過ぎていく人たちに、なにか腹立たしさを感じながら日々過ごしています。

で、前回ここにも書いた「伊是名夏子バッシング」であります。ここに、前回とは別の視点を持ち込みたいと思います。


日々、私が重い荷物を持って階段を上り下りしていても誰も手助けしてくれないのに、電動車椅子の人だと、駅員4人がかりで手助けしてくれる。それが障がい者の「権利」である。ちょっと待ってくれ、わたしは助けてもらえないのに、なんで「障がい者」だと助けてもらえるの?私は全部自己責任で「迷惑かけるな」とまで言われているのに、なんで「障がい者」だと「権利」として助けてもらえるの?「障がい者」だと迷惑かけてもいいの?

わたしがもしこう考えたとしても、無理もないところですよね。

実はこれが、「共生社会」の実現を阻んでいる最大の問題、なのです。「私は助けてもらえないのになぜ『障がい者』だと助けてもらえるの」問題。

「共生社会」の実現を目指す人たちはこの問題に、ちゃんとした答えを用意してこなかった。現在目指されている「共生社会」とは、重い荷物を持った人が健康な男性であれば「手助けしなくてよい」どころか「自己責任」だけど、「障がい者」だと手助けする社会である、と言っても良い、と思います。

これは間違っています。

「共生社会」とはそういう社会ではない。

目指されなければならないのは、みんなで「手助けしあう」社会です。ちょっと大変そうな人がいたら手を貸す、手助けする、そういう社会です。そういう「手助けしあう」社会の延長線上に、私たちよりもっとより大変そうな「障がい者」やマイノリティーを手助けする、ということが出てくるのです。私たち同士が「手助けしあわない」自己責任社会なのに、「障がい者」や「マイノリティー」だけは手助けしよう、という社会では、「伊是名夏子バッシング」のようなことが当然のように起こってくるのです。

つまり、私たちの社会では「誰が助けられる権利を持っていて、誰が助けられる権利を持っていないか」ということが問題となってきて、助けられる権利を持っている人を持っていない人が攻撃する、という事が起こる、ということです。

大切なことは、社会の誰もが「助けられる権利」を持っていることで、実際にいろいろな困った場面で「手助けしてもらえる」、そういう「自分も手助けしてもらった」経験の蓄積が、「自分も困っている人の手助けをしよう」というモチベーションになる、ということです。逆に、困っているときに「誰にも手助けしてもらえなかった」経験が蓄積すれば「なんであの人たちだけが助けてもらえるの?」と思うのは当然なのです。

この「誰もが助けられる権利を持っている」社会では、「障がい者」やマイノリティーの「助けてもらえる権利」を保証することは、「私たちが助けてもらえる権利」を保証することにつながります。他人の権利を認めることが自分の権利を守ることにつながるのです。しかし、「私たちが助けてもらえる権利」が全く保証されていない「自己責任」社会では、「障がい者」やマイノリティーという他人の権利だけが認められて自分の権利が認められないわけですから、結局、その権利は「助けてもらう必要のない豊かな階級」から「助けてもらう必要のあるマイノリティー」へと賦与されるもの、であることになります。しかしこれは、「助けてもらう必要のない豊かな階級」ではない、かつマイノリティーではないけれど自分が「助けてもらう必要」を感じている人たちにとっては、決して受け入れられるものではありません。

私たちの社会における「共生社会」とは、このような、「助けてもらう必要のない豊かな階級」から「助けてもらう必要のあるマイノリティー」へと手助けを賦与するもの、であります。だからそれは「権利」ではなく、「温情」とか「思いやり」に見えてしまうのであり、だから「伊是名夏子バッシング」が起こってしまいます。

本来の「共生社会」とは、そのメンバーの全員が「手助けしてもらえる権利」を有している社会です。そして、自分の「手助けしてもらう権利」が保証されるために、より困難な状況の人たちに手助けをするのです。もしそうでなければ、「共生社会」は絶対に実現しません。

 

かつてアメリカで、黒人が白人のバスに乗れなかった時代、黒人が白人と同じバスに乗るのは「白人の思いやり」によって実現することではなく、黒人の権利として実現するべきもの、でした。

現代日本で、車椅子の人がどこにでも旅行に行けるのも、私たち車椅子に乗らない人たちの「思いやり」によって実現することではなく、車椅子の人たちの「権利」として実現されるべきものです。しかし、その「権利」が保証されるためには、今回の伊是名さんのケースのように、無人駅に4人の駅員が向かう、ということが起こる。「たった一人の」電動車椅子の人のためにそんな手間をかけていたら、私たちへのサービスが疎かになりますから、それによって私たちの「権利」が侵害されるのです。

私たちは、車椅子の人がどこにでも旅行できるのは、彼らの「権利」ではなく、私たちの「思いやり」によって実現するものだ、と思っていたい。だから、その範囲内であれば、私たちは「思いやりのある優しい」人間でいます。しかし、それがひとたび「権利」という形で私たちの「権利」を侵害するとなれば、その「思いやりのある優しい」人間が豹変し、私たちの「権利」を侵してまで自分たちの「権利」を主張する人たちをバッシングする。

今回の伊是名夏子バッシングは、車椅子の人の権利を「思いやり」の範囲に押し込めておきたい私たち一般人と、「権利」として要求する人たちの格闘、だと言えます。これは「権利」は闘わないと得られない、という好例です。いつまでも「思いやり」の枠の中で満足していては、「権利」は永久に得られない。私たちはその戦いに反発し、戸惑いながら、だんだん理解していく。そういうことが今起こっている、と思います。

「フェミニズム」の主張が「男たちスーツなんて着てないでもっとオシャレを楽しもう」とか「金儲けだけが価値じゃない、もっとのんびりしよう」だったらどんなに良いか、と私は思います。でもフェミニズムの主張するところは「女性もスーツを着てバリバリ稼ぐ」なのであります。

アメリカやイギリスの恋愛小説に登場する男性は、「料理の上手な男」ではなく、「バリバリ稼いでる青年実業家」です。もし男性が料理が上手とか、家事を当たり前にシェアできるとか、フェミニズム的な魅力にあふれていても、「経済的能力」が低ければ、女性から見れば魅力的なパートナーではありません。

となると、「経済的能力が低い」男性がいくらフェミニズム的な魅力を高める努力をしても無駄、ということです。女性は「経済的能力が低い」というだけで、その男性をパートナーに選ばないのですから、その男性はフェミニズム的な魅力ではなく、経済的能力を高める努力をまずしなくてはいけないのです。

男性は、女性のパートナーを「経済的能力」ではなく、外見を含めた「人間としての魅力」で選びますから、男性のパートナー選びの方がフェアで、「経済的能力」を第一に選ぶ女性の方がパートナー選びではアンフェアです。

フェミニズム的な社会が実現するためには、女性がアンフェアなパートナー選びをやめて、男性を「経済的能力」はなく、純粋に人間的魅力で評価するようになる必要があります。でも間違いなくそうはならないでしょう。

フェミニズムの主張は最初に書いた通り「女性もスーツを着てバリバリ稼ぐ」社会です。男性の作り上げた、今やモンスター化した自由主義経済社会で男性と同じだけ活躍し、稼ぐ、その「公正さ」を求めるものです。ですから、フェミニズムのもともとの前提として、男性は「スーツを着てバリバリ稼ぐ」性である必要があるのです。そうでなければ、永遠の繁栄を続ける自由主義経済社会が崩壊してしまいます。そうなったら、女性が経済社会に参加するメリットがなくなってしまいます。男性が「稼ぐ性」でなくなったら、代わりに女性が「稼ぐ性」を担当しなくてはならなくなるのです。

ですから、フェミニズムは男性が、より「スーツを着てバリバリ稼ぐ」性であることを要求します。「経済的能力」の低い稼げない男性は、フェミニズム的な社会では存在価値がありません。女性が、経済的能力ではなく、料理が上手とか、当たり前に家事をシェアできるとかそういうフェミニズム的魅力でパートナーを選ぶようになるのは、引退して、のんびり老後を過ごしたい、と考えてからでしょう。

 

というわけで、こちらの本は、ナイジェリア出身の作家のTEDでのスピーチをまとめたもの。フェミニズムについての最もわかりやすい主張。この本を読んで、今書いたようなことを考えました。

森さん、辞めさせられちゃいました。

わたしは別に森さんには同情しません。今の時代、女性蔑視発言した、とみなされればやはりアウト、それも世界が見てるオリンピックですから。

「五輪組織委員長」もともと財界人を想定していたそうです。しかし、間違いなく激務な上に「無報酬」なり手がなくて、ラグビーワールドカップで実績のある森さんに引き受けてもらった。

「無報酬」だと、結局森さんのような「引退した元首相」がボランティアでがんばってもらうしかない、わけです。森さん、ラグビーワールドカップからオリンピックと、とてもよく頑張った、と思います。まさしくボランティアで、お国のために身を削った。尊い行為、だと思います。

でも、森さんの世代の人だと、結局「女性蔑視発言」見たいなボロが出る。日本の場合、反差別意識が「ゼロ」なので、「差別発言コード」を設定して徹底的に周知する、みたいな教育を受けていない。今回女性差別発言だったから「まだまし」で、これが人種差別発言だったら、とんでもないことになっているところでした。

こういうことになるのも、五輪組織委員長を「無報酬のボランティア」に頼っているから。今回の騒動は、その限界を露呈した、という解釈をしないといけない。

最初から、五輪組織委員長に10億円の年棒を提示して、凄腕を連れてくる、という発想が必要なのです。もし10億円の年俸に見合わない働きしか出来なければ解任する。そういうシステムが必要なのです。

そもそも無報酬のボランティアがトップを務める組織って、だいだい社会活動の組織です。ユニセフとか、そういうの。五輪組織委員会のような巨大ビジネスのトップを「無報酬のボランティア」に頼ってはうまくいくはずがない。その点、ボランティアなのに森さんはよくやった。でも、今回の騒動は「ボランティアの限界」をはっきり示しているのです。

ただね、今回の騒動、そういう視点で批判する意見は皆無。「ちゃんとした仕事をする人が必要なら、それに見合った報酬を払う」という当たり前のことを誰も指摘しないまま、森批判派と森擁護派が不毛な言い争いをしている。こうなってくると、ボランティアで頑張った森さんはかわいそうだし、こんな割に合わない仕事を引き受ける人は、もう絶対出てこない。有能な人ほど、こういう仕事を忌避するようになり、日本の組織はどんどん弱体化する。

まずは「五輪組織委員長に10億円の年俸を」ということから始めないと、本当になにも良くならない、と思います。

私の息子が、私の母校である地元の小学校に入学したとき、びっくりしました。私がその小学校に通っていたのは1970年代、まだまだ日本が貧しかった頃です。それから25年以上たち、日本も経済成長し、小学校もどれくらい立派に変わっているだろう、と期待していたのですが、私たちの頃とほとんど変わっていなかったのです。学校の設備も授業内容も、ほとんど変わっていない。「大丈夫か日本」と思いました。

それから20年経ちますが、まだほとんどそのころと変わっていなさそうです。子供たちは学校に通っても、パソコンもタブレットも使いこなせないままなのです。

これで大丈夫なわけないですよね。日本は先進国中、教育にかける国費が一番少ない国の一つらしいです。日本の物価の安さを考えると、その少なさは群を抜いているのでしょう。

「日本の教育の水準は昭和の頃と変わっていない」つまり日本の教育水準は驚くほど低い、のです。

これは公立学校だけの話ではありません。わたしはいわゆる「有名私立」に中学から通いましたし、息子たちも公立中学から有名私立高校に進みましたが、「有名私立」が公立より水準の高い教育をしている、という事実はありません。私立の方が公立より1クラスの人数も多く、教師にしても、公立の方が給料が良い場合が多いので、必ずしも良い教師がいるわけではありません。生徒が受験勉強をくぐりぬけてきたのでレベルが高い、と言うだけのことです。

 

「なぜ日本人は英語が喋れないのか」

今までいろいろな説明がされていますが、こうしてみるとなんてことはない、それは「日本の教育水準が低い」からで、ちゃんとした英語教育を学校で受けられていないから英語が喋れない。昭和の時代のままの水準の学校教育で英語が喋れるようになるわけありません。

この「きちんとした語学教育を受けていない」ということの影響は、第3外国語を学ぼうとするときに顕著に現れます。

日本のアニメは海外でも大ファンがたくさんいます。アニメを通して日本に興味を抱き、日本にやってくる外国人たち、彼らの多くが日本語を勉強し、それなりにしゃべれるようになっています。

ひるがえって日本では、ものすごい「韓流」ブーム。新大久保の人出はすごいです。でも、これだけ若い人が「韓流」が好きでも、その中で一体どれだけの人が韓国語を学ぼうとするか。海外のアニメ愛好家で日本語を学ぶ人に較べれば、その数は圧倒的に少ない、と思われます。

なぜ日本の若者は韓国語を学ぼうとしないのか。

それは「学校でちゃんとした語学教育を受けていないから」です。学校で英語をちゃんと学んで、外国語を学んでしゃべれるようになるプロセスを経験していない。だから、自分が外国語を学んで喋れるようになる、というイメージが全くないし、そのやり方もわからない。学校でちゃんとした語学教育を受け、英語で外国人とそれなりにでもコミュニケーションが取れるようになっていれば、次は韓国語を学んでみよう、というモチベーションも湧くし、外国語を学ぶプロセスも経験していますから、学べばある程度喋れるようになる。アニメ好きの外国人はだから日本語が喋れるのです。

でも、そのプロセスを経験していない日本の若者は、そもそも韓国語を学ぼうともしない。それは、「今の若者が内向き」だからではありません。「ちゃんとした教育が受けられていない」ことが原因です。

 

この「学校で水準の高い教育を受けていない」ということは、語学だけでなく、日本社会のあらゆることに影響しています。

さっきも言いましたが、日本では、有名私立学校と言えども、決して公立より高い水準の教育をしているわけではありません。現に、有名私立学校出身でも、たいてい英語は喋れません。そんなもんです。

ということは、有名私立学校から一流大学を卒業するような「富裕層」の子弟といえども、決して高い水準の教育は受けていないのです。政治家になったりエリートビジネスマンになったりする人たちのほとんどは、庶民と大差ない、水準の低い、昭和の時代のままの教育しか受けないまま、日本の支配層になっていく、ということです。

 

今、世界は「アートバブル」現代アート作品がすさまじい高値で取引され、アートを買うことは世界の富裕層にとって投資であるとともにステータスとなっています。

でも、日本ではアートが全然売れない。欧米はもとより、中国や韓国、台湾あたりと較べても、マーケットの小ささは歴然としていて、全然売れない。日本には真っ当なアート市場がない、と言われています。

なぜ売れないか、これもまた、日本の富裕層が「水準の低い教育しか受けていない」ことの結果です。アートを理解し愛するような高度な知性と教養を持つような教育は、富裕層の子弟と言えども受けていないのです。そういう教養こそステータスだ、と考えて、そういう教養を持つよう努力するようになる、そういうレベルの教育は受けていない。

富裕層、という日本の支配層ですら、頭の中は庶民と大差がない、というのが日本の貧困な教育のもたらした現状なのであります。

 

どんなに韓流が好きでも、韓国語を学ぼうなどとは思いつきもしない若者。

お金はあってもアートは買わない富裕層。

これは、昭和の時代のままの教育を放置し、教育への投資を怠ってきた日本社会がもたらしたものです。

そして、私たちの社会は、教育の貧困によって、実際にどんどん貧困になっています。

このコロナ禍、ヨーロッパの100分の1の感染者数で「医療崩壊」を起こしかねない貧困な医療体制の国に私たちは住んでいることに気付かざるを得なくなりました。イタリアの医療体制がどうの、スペインがどうの、などとニュースは言ってましたが、日本でイタリア並みの感染者数が出たら、惨状はイタリアの比ではないでしょう。私たちはどうも、とても貧しい国に住んでいるらしいのです。

その貧困をもたらしたのが、教育の貧困だ、とわたしは思っています。それによって、このまま、日本はゆっくりと滅びていく、と私は思います。

安倍首相の支持率が下がっているそうな。

コロナ対策の失敗、とかいっても、そもそも失敗してないし、コロナ・パンデミックなんて誰も経験したことないことに対する対策には、誰がやっても批判がつきもの。311の時の福島の原発危機だって、今検証すると当時の政府はよくやっているのだけれど、あの時は無能扱いだったでしょ。

ただね、安倍首相、コロナ・パンデミックが始まってから、とにかく存在感がなかった。一度も私たちの心に響くような言葉が出なかった。なんだか他人事みたいな上の空の感じで、ビシッとなんか言ってる感じが一度もなかった。

こういうのは安倍首相の得意分野だと思っていたので、みんなすごくがっかりしたと思う。有事立法を制定し、緊急事態条項を憲法に加えよう、と言ってる人なんだから、「緊急事態宣言」ですごいリーダーシップを発揮し、私たちの心にずんと響く言葉を発してくれるはずだ、安倍首相こそ「有事の人」に違いない、こここそこの人の出番だ。

私のような、安倍首相を一度も支持したことが無い人間ですらそれを期待したくらいなのだから、みんなもっと期待してたと思うんだけど、全くの期待外れ。行動もだけど、ともかく心に響く「言葉」が全然なかった。従って、この人は「共感性」に欠ける人なんだな、という印象をみんな持ってしまったと思う。人の気持ちがわからない。

コロナでたとえばもっと死者が出たとしても、もし安倍首相が私たちの心に響く言葉をビシッと発していたら、安倍首相の評価は上がったと思う。この人のやったことなら、少々失敗だったとしても許せる、みんなそう思うんじゃないかな。

結果としてコロナ対策はうまく行っているわけで、なのに安倍首相の支持率が下がるのは、やはりこの人に「言葉」がなかった、ということが致命的だった、ということ。「有事の人」と思ってたのに、コロナという「有事」に有効な言葉を発せずに「ボーっとしてた」という印象をみんなが持ってしまったことは、安倍首相にとって「致命的」損失になるかもしれない。

だって、「今、中国が攻めてきたら」安倍首相じゃ困るな、って誰もが思うでしょう?

もう彼の繁栄も「末期」なんだろうな。

これからの世界は、ニュースや物事のオリジナル、ソースに当たることが出来、それを自分のフィルターやバイアスを通して、それを情報として発信できる「発信者階級」の人間と、「発信者階級」の発信した、発信者のフィルターを通ってバイアスのかかった情報をただただ信じてしまう「受信者階級」に分かれる。

そして「受信者階級」の人間は、「発信者階級」の発した情報を「貴重な情報」として拡散し、自分はその貴重な情報を知っている「特別な人間」だと信じるようになり、結果として自ら進んで「発信者階級」の奴隷となって「発信者階級」の人間に奉仕する。

この「発信者階級」と「発信者階級」の奴隷としての「受信者階級」というヒエラルキーは、もともと宗教において存在したもの。神という不可知な存在とつながっている聖職者の発する情報を信者は疑うことが出来ない。そしてその聖職者のもたらす情報を「貴重な情報」として社会に拡散させようとし、結果として宗教の奴隷となる。

現代では、インターネット上にさまざまな「神」がいて、極端なバイアスのかかった情報を流し、信者たちは一点も疑うことなく発信者の発する「貴重な情報」の拡散に努めて、「社会の改善」への強い情熱を拡散する。

 

「反ワクチン運動」は、「発信者階級」の奴隷となった「受信者階級」によって拡散され、世界中につよい影響力を持つこととなった。

ワクチンに関する医学的疫学的な問題のソースに当たることは、一般人には不可能。私たちは「発信者階級」の発する情報のどれが真実かそうでないか、判断する材料を持たない。私たちは「発信者階級」の発する情報の「どれか」を恣意的に信ずるだけである。そして、ある人々が、「ワクチンは有害」という極端な情報を発信する「発信者階級」の情報を「自分たちだけが知っている貴重な情報」として拡散し、それに基づく「社会の改革」のために「戦った」結果、「反ワクチン」は世界に強い影響力を持つこととなり、ワクチンでほぼ撲滅したはずの感染症が世界的に復活し始めている。

「発信者階級」の情報を「神の情報」として崇める人たちの影響力は、宗教がかつて持ち得た影響力に匹敵するものになりつつある。

 

私たちは多かれ少なかれ全員、「受信者階級」であり、「発信者階級」のバイアスのかかった情報のどれかを恣意的に信じるしかない。

重要なことは、まずは自分が「受信者階級」の人間であることを自覚すること。そして、その自覚のもとに、無条件に「発信者階級」の奴隷とならないこと。疑うことを知ること。

そして、自分のできる範囲のことには、オリジナルやソースに当たる努力をすること。

自分のできる範囲のことについて、オリジナルやソースに当たる努力をすることを「教養を高める」と言うのである。高い「教養」によってのみ、「発信者階級」の発する情報について冷静な判断を持っ事が出来るようになる。

現代の私たちは、今すぐ役に立つわけではない「教養」を軽視し、手っ取り早く役に立つ「情報」を得ることでで事足れり、としている。しかし、手っ取り早く手に入る「情報」は、「発信者階級」のフィルターを通しバイアスがかかったものなのである。いくら「情報」をたくさん仕込んでも、その情報についてどう考えるか、という能力は育まれない。その情報について冷静な判断を下すためには、自分のできる範囲のことについてオリジナルやソースに当たることで高められた「教養」を持っていなければならない。