私は、よく巨大なキャスター付きバッグに重い荷物を入れて、都内を電車で移動しています。時には、その重くて巨大なバッグを持って、階段の上り下りをしなくてはならない時があります。はっきりいって、すごく大変です。上りはゼイゼイ言いますし、下りだと、もしここで足が絡まって荷物ごと転倒したら、足を骨折するだろうな、という恐怖に駆られながら降りてます。

もちろん、誰も手助けなんてしてくれません。ときどき「お手伝いしましょうか」と声をかけてくれるのは、全員「欧米人」です。欧米では、こういう時、誰かが手助けするのが当たり前、だそうです。私たちの社会では、「キャスター付きバッグを持ってる人は、他人に迷惑をかけないように行動してください」というマナーポスターが貼ってあるように、重い荷物を持った人をみんなが手助けするどころか、重い荷物を持った人は周りに迷惑をかけないように気をつけなさい、というのが「常識」です。

 

かくして、私は誰も手助けしてくれないどころか、私が重い荷物を持って階段を上り下りしている傍を、なにか迷惑そうに通り過ぎていく人たちに、なにか腹立たしさを感じながら日々過ごしています。

で、前回ここにも書いた「伊是名夏子バッシング」であります。ここに、前回とは別の視点を持ち込みたいと思います。


日々、私が重い荷物を持って階段を上り下りしていても誰も手助けしてくれないのに、電動車椅子の人だと、駅員4人がかりで手助けしてくれる。それが障がい者の「権利」である。ちょっと待ってくれ、わたしは助けてもらえないのに、なんで「障がい者」だと助けてもらえるの?私は全部自己責任で「迷惑かけるな」とまで言われているのに、なんで「障がい者」だと「権利」として助けてもらえるの?「障がい者」だと迷惑かけてもいいの?

わたしがもしこう考えたとしても、無理もないところですよね。

実はこれが、「共生社会」の実現を阻んでいる最大の問題、なのです。「私は助けてもらえないのになぜ『障がい者』だと助けてもらえるの」問題。

「共生社会」の実現を目指す人たちはこの問題に、ちゃんとした答えを用意してこなかった。現在目指されている「共生社会」とは、重い荷物を持った人が健康な男性であれば「手助けしなくてよい」どころか「自己責任」だけど、「障がい者」だと手助けする社会である、と言っても良い、と思います。

これは間違っています。

「共生社会」とはそういう社会ではない。

目指されなければならないのは、みんなで「手助けしあう」社会です。ちょっと大変そうな人がいたら手を貸す、手助けする、そういう社会です。そういう「手助けしあう」社会の延長線上に、私たちよりもっとより大変そうな「障がい者」やマイノリティーを手助けする、ということが出てくるのです。私たち同士が「手助けしあわない」自己責任社会なのに、「障がい者」や「マイノリティー」だけは手助けしよう、という社会では、「伊是名夏子バッシング」のようなことが当然のように起こってくるのです。

つまり、私たちの社会では「誰が助けられる権利を持っていて、誰が助けられる権利を持っていないか」ということが問題となってきて、助けられる権利を持っている人を持っていない人が攻撃する、という事が起こる、ということです。

大切なことは、社会の誰もが「助けられる権利」を持っていることで、実際にいろいろな困った場面で「手助けしてもらえる」、そういう「自分も手助けしてもらった」経験の蓄積が、「自分も困っている人の手助けをしよう」というモチベーションになる、ということです。逆に、困っているときに「誰にも手助けしてもらえなかった」経験が蓄積すれば「なんであの人たちだけが助けてもらえるの?」と思うのは当然なのです。

この「誰もが助けられる権利を持っている」社会では、「障がい者」やマイノリティーの「助けてもらえる権利」を保証することは、「私たちが助けてもらえる権利」を保証することにつながります。他人の権利を認めることが自分の権利を守ることにつながるのです。しかし、「私たちが助けてもらえる権利」が全く保証されていない「自己責任」社会では、「障がい者」やマイノリティーという他人の権利だけが認められて自分の権利が認められないわけですから、結局、その権利は「助けてもらう必要のない豊かな階級」から「助けてもらう必要のあるマイノリティー」へと賦与されるもの、であることになります。しかしこれは、「助けてもらう必要のない豊かな階級」ではない、かつマイノリティーではないけれど自分が「助けてもらう必要」を感じている人たちにとっては、決して受け入れられるものではありません。

私たちの社会における「共生社会」とは、このような、「助けてもらう必要のない豊かな階級」から「助けてもらう必要のあるマイノリティー」へと手助けを賦与するもの、であります。だからそれは「権利」ではなく、「温情」とか「思いやり」に見えてしまうのであり、だから「伊是名夏子バッシング」が起こってしまいます。

本来の「共生社会」とは、そのメンバーの全員が「手助けしてもらえる権利」を有している社会です。そして、自分の「手助けしてもらう権利」が保証されるために、より困難な状況の人たちに手助けをするのです。もしそうでなければ、「共生社会」は絶対に実現しません。