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昨日は、とっても太陽が暖かかった。
澄み切った青空を楽しみながら、チャリンコでお買い物。
たったこれだけなのに、チャリをこぎながら「なんて幸せなんだろ~」って感じた。
真っ赤なパプリカとトマトを使ってサラダを作ろう、糸こんにゃくも買ったから、今夜は肉じゃがだ、なんて考えながらカゴに入れる。
普通が普通に楽しい。
何者かである必要もないし、ありのままでいい。空の青さをただ綺麗だと思える。
有難い!
3年前までは、買い物に行き食事を作ることは母親としての義務だと思い込んでいた。
子どもたちが成長して、自分のことが出来る様になってからも、相変わらず、母であり続けることを重要視していた。
だから、年と共に体力的に厳しくなっても、私の義務が減ることはなく、やらなくてはいけないことがいっぱいあって、いつも追い立てられて時間がないと感じていた。
人生は、死ぬまでいかに問題なく生き延びるか、だった。
楽しいはずがない。
ただこなしている感覚だけの毎日。
今では、理由もなく楽しい。
ただ、今にあって、今を感じること、それだけで存在していることの凄さに気がつける。
自分自身に帰る、内側に目が向き、私が何を感じているのか、本当の意味で私に興味がわきはじめた。
義務感でこなしているとき、私の頭にあったのは、キチンとできているか、正しくできているか。つまり、外側から見た私は大丈夫か、誰かに避難されないだけのことができているか、という防御の姿勢だった。
私は正しくあらねばならない。こう考えるとき、同じ行為をしながらも楽しさは少なくなる。
何でだろう、なんで正くあることが辛さに変わるのだろう?
正しさ、の定義にもよるが、
なにかを基準として評価し、点数を付けたとたんに、自由であることの楽しみは半減する。
もっともっと自由に表現できる可能性が減るから、つまらなくなる。
規制がかかるから、辛くなる。
私たちは、本来とても自由で、創造的な存在なのだから。
ただ、それを忘れてしまっただけ。
この私の自由を感じているとき、予想外のいいことが起こる。
自分の中から溢れ出して、自分が感動するんだな。
そういうとき、私たちは自分の中に神の一部を見ているんだろう。
自分のやりたいことが分からないのは、自分の「思い込み」という規制の中で動いているから。
自分が自分にどういう規制をかけているのかに気が付いて、「そこから離れていいよ、もっと、自由に表現していいよ」と自分に許可を出してあげると少しスムーズに動ける様になる。
それでも動けない場合は、なんらかの過去の出来事が、自分を規制していることがある。
だから、それを見つけて、解除すると、もっともっと、スピードアップする。
そうそう、先日の勉強会のとき、良い子を演じてきた人が、こんなことを言っていた。
「悲しいんだけど、幸せを感じる」
すごい言葉だと思った。
良い子を演じていたとき、彼女は自分の心に触れることができず、何も感じなかったらしい。
自分を、良い子でいなくていいよ、と解き放ってあげたとき、はじめて、感覚が蘇ってきたそうだ。
悲しさを感じている自分に幸せを感じる、と。
自分に許可できるのは、自分だけ。
だから、すべて、あなたがあなた自身を変えていく。
私は、ちょっとだけ、あなたが決心するのをお手伝いする。
すると、魔法がとけて自由の身に。
美女と野獣の野獣が王子様にかえったようにね。魔法が解ける瞬間が最高に楽しいよ。