30年目②。 | myhappylife☆私の歩き方☆

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13歳MCTD、27歳肺高血圧症、35歳食道静脈瘤、門脈圧亢進、肝臓線維化。長年の汎血球減少、シェーグレン。SLEとして治療中。
38歳〜胆嚢ポリープ、IPMN、チョコレート嚢腫、乳管内乳頭腫フォロー中。
41歳〜書痙、局所性ジストニア。
介護施設看護師です。

さて、30年目の振り返り、続きです。


13歳で膠原病の診断を受けた私でしたが。

「難病」と言われても、私は「死」を意識したことはありませんでした。


不便とか不都合とかは、たくさん感じていたけど。

「命の危機」は、感じなかったんですよね。




でも、それを初めて感じたのが、27歳。

肺高血圧を合併したときでした。


その時点で看護師3年目。

一応、医療者になっていた私でした。

調べて最初に出てきた言葉は、「予後2、3年」でした。




私は自覚症状に疎くて。


今思えば、走ったり自転車をこぐと息が苦しくて。

日々だるくて。

熱中症と思い込んでたけど、よく頭痛で吐いてて。

毎日ロキソニン使ってて。

明らかに不調はあったんです。


でも、そもそも膠原病のある身。

それが、3交代とか2交代の夜勤つきの病棟勤務をやってたから。

不調はあって当然、と思ってました。


3年目まで、あと少し頑張れば、一人前だから。

そういう看護教育のとこに就職してました。

そこまで頑張ったら夜勤のないところにいこう、て考えていました。


まぁ今思えば…。

同じ勤務の健康体は、連日勤務でも飲みに行ったり。

夜勤明けでも遊んだり。

連休じゃない1日休みでも遊んでいたようで。

勤務前日も夜勤明けも休みも、すべて「身体を休めるため」に使っていた私とは大違いでした。




以前も書いていますが。

私の肺高血圧が見つかったのは、勤め先の救急外来で、研修医の方の診察でした。


心音がおかしい。


て。

ラッキーだったのが、指導医が膠原病専門医で。

mctdならもしかして…、てすぐにレントゲンと心電図をとって。

あっけなく、教科書通りの所見が出て。


私の診断って、いつもあっけないんですよね。

結構稀な疾患のはずなのに。

「東京ていう都市」にいる強さなんですかね。




それを、当時の主治医に伝えましたが。

主治医は全く動じず。


ちょっと薬が増えるだけだよ。


なんて言ってました。

この頃のことは思い出したくないけど。

主治医は、地位とか名誉を手に入れてて。

お忙しかったんでしょうね。


心カテどころか心エコーすらとってくれず。

正確な診断もつけずに、ただ薬を追加しました。


そのあとも、検査は全く行わず。

薬の効果は?なんて、気にする様子はなく。

不信感が募っていきました。




それを職場で愚痴っていた私。

その頃には、夜勤のない外来に所属していて。


当時の看護長や先輩方が、職場の医師にかけあって下さったんです。

職場で心エコーとか検査をして。


それでも私は、盲目的に主治医を信じちゃってて。

転院とか、考えられてなかったんですけどね。


この検査結果をみて、先輩方に怒られるんですよ。


あんた、このままじゃ殺されるよ!

しっかりしな!!

紹介状なんてなくても、今のあんたなら自分の病状くらい説明できるてしょ!


て。

私、控室で泣いちゃったんですよねー。

これ、休憩時間の出来事です。

なんてヘビーな日々なんだ(笑)

これで仕事してた私エライてすよね?(笑)

しかもこの頃にマンション購入で動いてます。

思考がおかしくなってたんだと思います。変なハイテンション。




あー懐かしい。

この頃が一番苦しい思い出です。

でも、こうして振り返れる今があってよかったんですね。

あのまま転院しなかったら…。


先輩方とはもう縁が切れてしまったけれど。

命の恩人だと思っています。




振り返ってたら、話があちこちにとんでますね。


本当にすみません。

拙い文章を、いつも読んでいただいてありがとうございます。