さて、30年目の振り返り、続きです。
13歳で膠原病の診断を受けた私でしたが。
「難病」と言われても、私は「死」を意識したことはありませんでした。
不便とか不都合とかは、たくさん感じていたけど。
「命の危機」は、感じなかったんですよね。
でも、それを初めて感じたのが、27歳。
肺高血圧を合併したときでした。
その時点で看護師3年目。
一応、医療者になっていた私でした。
調べて最初に出てきた言葉は、「予後2、3年」でした。
私は自覚症状に疎くて。
今思えば、走ったり自転車をこぐと息が苦しくて。
日々だるくて。
熱中症と思い込んでたけど、よく頭痛で吐いてて。
毎日ロキソニン使ってて。
明らかに不調はあったんです。
でも、そもそも膠原病のある身。
それが、3交代とか2交代の夜勤つきの病棟勤務をやってたから。
不調はあって当然、と思ってました。
3年目まで、あと少し頑張れば、一人前だから。
そういう看護教育のとこに就職してました。
そこまで頑張ったら夜勤のないところにいこう、て考えていました。
まぁ今思えば…。
同じ勤務の健康体は、連日勤務でも飲みに行ったり。
夜勤明けでも遊んだり。
連休じゃない1日休みでも遊んでいたようで。
勤務前日も夜勤明けも休みも、すべて「身体を休めるため」に使っていた私とは大違いでした。
以前も書いていますが。
私の肺高血圧が見つかったのは、勤め先の救急外来で、研修医の方の診察でした。
心音がおかしい。
て。
ラッキーだったのが、指導医が膠原病専門医で。
mctdならもしかして…、てすぐにレントゲンと心電図をとって。
あっけなく、教科書通りの所見が出て。
私の診断って、いつもあっけないんですよね。
結構稀な疾患のはずなのに。
「東京ていう都市」にいる強さなんですかね。
それを、当時の主治医に伝えましたが。
主治医は全く動じず。
ちょっと薬が増えるだけだよ。
なんて言ってました。
この頃のことは思い出したくないけど。
主治医は、地位とか名誉を手に入れてて。
お忙しかったんでしょうね。
心カテどころか心エコーすらとってくれず。
正確な診断もつけずに、ただ薬を追加しました。
そのあとも、検査は全く行わず。
薬の効果は?なんて、気にする様子はなく。
不信感が募っていきました。
それを職場で愚痴っていた私。
その頃には、夜勤のない外来に所属していて。
当時の看護長や先輩方が、職場の医師にかけあって下さったんです。
職場で心エコーとか検査をして。
それでも私は、盲目的に主治医を信じちゃってて。
転院とか、考えられてなかったんですけどね。
この検査結果をみて、先輩方に怒られるんですよ。
あんた、このままじゃ殺されるよ!
しっかりしな!!
紹介状なんてなくても、今のあんたなら自分の病状くらい説明できるてしょ!
て。
私、控室で泣いちゃったんですよねー。
これ、休憩時間の出来事です。
なんてヘビーな日々なんだ(笑)
これで仕事してた私エライてすよね?(笑)
しかもこの頃にマンション購入で動いてます。
思考がおかしくなってたんだと思います。変なハイテンション。
あー懐かしい。
この頃が一番苦しい思い出です。
でも、こうして振り返れる今があってよかったんですね。
あのまま転院しなかったら…。
先輩方とはもう縁が切れてしまったけれど。
命の恩人だと思っています。
振り返ってたら、話があちこちにとんでますね。
本当にすみません。
拙い文章を、いつも読んでいただいてありがとうございます。