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エピソード11「初仕事」

本日5月30日はヒロ・ヤマガタさんの61歳の誕生日です。

おめでとうございます。


エピソード11「初仕事」


 ヒロヤマガタが、上京したエピソード9の続きのエピソード。

 19歳で、家出同然に上京して飯田橋の安宿に宿泊していたヒロヤマガタは、すぐにお金がなくなったので、食べるためにも、アルバイトを探した。今みたいに、インターネットも情報誌もない時代なので、当時は足で歩くほかなかった。何軒か飛び込みでまわったところで、ある画材屋のおばさんに「お金がないので雇って下さい。」と頼んだら、「内じゃ入らないけど、親戚のやっている画材屋が人手を欲しがっているよ。」と、画材屋を紹介してくれた。

 次の日、早速、旅館の荷物をまとめて、画材屋の屋根裏に居候をしながら働くことに在った。仕事は、画材を大学や会社に運び届ける肉体労働であった。卸しの仕事だったので、会社は事務所だけで、実際にはあちこちの画材メーカーから直接、大量の品物をワゴンやバンに積み込み、取引先に運ぶという単純労働であった。結構重い荷物であったが、中高生時代に、材木運びで鍛えられたヒロヤマガタにとっては少しも苦にならなかったそうです。


 ある時、ヒロヤマガタの勤めていた画材屋さんがお得意さんの広告代理店から、上等の額縁を受注したが、納品当日の午後遅くになって、メーカーから届いた現物に、クライアントから依頼されていた「○○新聞寄贈」という、言ってみれば、一番大事な金文字が書かれていなかったことがあった。

 納品は夕方7時の式までに間に合うように注文を受けていた。もう、遠いメーカーに追加で作業を頼む時間的な余裕はなくなっており、どうしよう?と一同が頭を抱えていたときに「山形、お前できないか?」と声がかかった。一瞬は「え?おれ出来ないけど・・・。」としり込みしたが、そこは気楽なアルバイト。失敗したってどうって事はない。よくよく聞いてみると、レタリングを正式に勉強したことのない自分でも、何とか絵心があればつじつま合わせぐらいはできそうだ、それに僕は細かい仕事に熱中するのは得意中の得意とおもい、細かい筆先を使い「○○新聞寄贈」の金のロゴを何とか仕上げたそうです。納期に1時間も余裕があったそうだ。アルバイトの小僧が書いたというより描いた金文字入りの額縁は無事にクライアントに届けられ、画材屋内でのヒロヤマガタの評価はサマ代わりにアップすることになった。給料は据え置きだったが、ありがたいのは、自信の肉体労働以外の才能を買ってくれた従業員仲間で、取引先がくると、その人たちにヒロヤマガタの器用さを売り込んでくれた。

 そのおかげで、顧客の広告会社が「手伝ってくれないか」と言ってくれるようになった。そこで、早速出かけていくとイラストの仕事。技術的には何の問題もないので、たちまち何枚もの仕事をこなすと、広告代理店のイラスト担当の社員よりうまいので相手はビックリして「ウチに来てくれないか」と誘ってくれたそうです。

「でも、今のバイト先のアトガマが見つからないと・・・・・・」と返事を保留して、画材屋に帰って、ヒロヤマガタに好意をもってくれている仲間に相談すると、「キミは、こんなところで、肉体労働だけさせているのはもったいない。ここは俺が引き受けるから、キミの才能が少しでも発揮できるところに移れ」と言ってくれた。

 ヒロヤマガタは上京してから3ヶ月もたたないうちに、二度目の引越しをすることになる。画材屋の屋根裏の一握りの荷物をまとめて移り住んだのは、広告代理店の社長宅だった。また、居候をすることになる。


 最初の仕事は、神田・精養軒のパッケージ用のバラをデザインするものだった。社長はテストするだけのつもりだけだったようですが、仕上がりが予想外に素晴らしかったので、

「よし!このまま使おう」ということですぐに商品化されることとなった。

 それから、ヒロヤマガタは重宝がられ、パッケージに使うデザインやイラストの仕事が次々舞い込むようになり、疲れを知らない1920歳の当時の体力は、殺到する注文を、それこそ不眠不休で片っ端からこなしていっていた。時には三日三晩仕事を続けた結果倒れてしまったこともあったが、それでもブドウ糖をうちながら仕事をこなしていたそうです。