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エピソード20「“パリ国立美術学校の聴講生となる”の真実」

エピソード20「“パリ国立美術学校の聴講生となる”の真実


 1972年秋、失恋した揚げ句の果てに、パリに住み着いたボクは、絵を描いたり、ルーブル美術館を学校代わりに日参したり、若いミュージシャンや文学青年たちと付き合ったりして、20代半ば前後の、言ってみれば、ボヘミアンの青春をエンジョイしていた。




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          1984年「美術館」

 そういう、悪ガキ仲間との交流の中で、ボクは自然に

エコール・デ・ボザール(Ecole des Beaux Arts=パリ国立美術学校)のキャンバスにも足を踏み入れていたが、いつの間にか、おなじ年頃の学生たちにまじって、ちゃっかり教室にも顔を出していた。


そう、東京芸大のときと同じニセ学生である。なにしろ、東京芸大では、日本の美術の最高学府の芸術各分野の専門技術のエッセンスといったものを、おそらく正規の学生の誰よりも、真剣かつ貧欲に吸収できたという“前科”と自信があるから、フランスでも、と思ったわけではけしてない。青春の日々というのは、そんなに計画性はないし、そうかといってまったくノンシャランというわけでもなかった。

 

「おい、ヒロ、ただで、堪能するまで、パリジェンヌのヌードが拝めるところボザールっきゃないぜ」と悪友のジャン・ジャックのその一言で、ボクたちのボザール無資格“受講”が決定したのであった。

  狙いは、東京芸大で実験済みのクロッキーの大教室にもぐり込むことである。まず、大教室の時間割を調べた。今でも覚えている、火曜と木曜が女性モデル、月、水曜が男性モデル、金曜が男女5,6人の混成モデルだった。もちろん、われわれは月曜と水曜は欠席し、火曜、木曜は皆勤だった。金曜は上玉の女の子が混じっている時は出席と“勉学姿勢”ははっきりしていた。


 


大教室は階段教室で、一番下が、ステージになっている。それが、フランス人気質なのか、画学生たちはみんな階段の上の方に陣取っていて、最前列のカブリツキはいつもがら空きであった。ジャン・ジャックにその理由を聞いてみると、フランス人は“かっこつけ”だからなとバッサリ。その点、はじめから、体裁もヘチマもない、というより体裁に見放されているニセ学生のボクらは、怖いものなしだった。画板を構え、クロッキー片手に格好だけは一人前で、教室の最前列にいつも二人で座り込んだものである。速写のクロッキーだから、女性モデルは、時々ポーズを変えてくれる。それにムーブマンの練習で、美しい肉体の動きが出る。その微妙な肉の躍動を、あんな高いところに座っているやつらにキャッチできるもんか、と悪ガキ2人は、正規の学生の悪口を言いながら、“カブリツキ写生”に精を出していた。なにしろわれわれの目的はヌードだから、モデルがポーズを変えたり、ムーブメントのあるたびに、画板を抱えて、円形の階段教室のステージの周りをぐるぐる回り、女性の肉体の微妙な辺りがどう変化するかを、前代未聞の集中力で観察したことだった。



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 しかし、ボザールの近所の、学生の溜り場になっているカフェで、いつも大教室で顔を合わせる学生たちが、イヤにシラーッととして変だなと悪い予感がした翌日、ボクはボザールの学生かに呼ばれ、ニセ学生があっさり露見した。


 

それから、いろいろゴチャゴチャあったが、結局、ボヘミアン仲間のコネからコネをたどり、日本政府のお役人の添書を手に入れ、ボクは、ボザールの聴講生の正式登録を済ませたのであった。ジャン・ジャックもそのあとすぐニセ学生が露見していしまい、ボク同様にじたばたしていたが、結局、正式登録を済ませることができた。

正式登録をすませたといっても、それは形式だけのことであって、二人ともしていることは、ニセ学生のときと何も変わらなかった。



「登録のお義理に、美術史や、美学の講座にも顔を出してみたが、その退屈な内容にあきれた。授業中にあんなノートの読みあげを聞くより、自分で図書館にいき、好きな本を読めば最低10倍の効率が上がる」とボクは思った。