(『新・人間革命』第7巻より編集)
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〈萌芽〉 24
その時、彼女は自らに言い聞かせた。
”少しでも人を頼ろうとする心があれば負けだ。私が立たなかったら、誰が立つのか。今、立ち上がらなかったら、いつ立ち上がるのか。
広宣流布の全責任を担って立つのが、学会の師弟の道ではないか!”
彼女は、山本会長のロサンゼルスでの激励を思い起こし、あの揮毫を胸にいだいて、地区の建設に取りかかった。
妙法の先覚者の勇気は、必ず新しい道を開くと心に決めて。
来る日も、来る日も、彼女は友の家を訪ねては語り合い、学会の正義と真実を訴え続けた。
やがて、マサコ・クラークが地区部長になると、シアトル地区は大きく発展していった。
昭和三十七年、彼女は二人目に子どもを身籠った。夫のハリーも仏法の計り知れない力を実感していた。
十二月、遂に、第二子が誕生した。今度は男の子であった。ハリーの喜びは大きかった。
妻に付き添っていた夫は、病室を出ると、出産を祝って、ランの花を買って来た。
だが、なんと、その日に、ハリーは再び胃潰瘍で倒れてしまったのである。
妻と同じ病室に夫も入院した。何日間か昏睡状態が続いたが、意識が戻ると、彼は妻に、一緒に勤行したいと言い出した。
夫妻は病室で勤行し、唱題した。そして、ハリーは、安らかに息を引き取ったのである。
最愛の夫を亡くした悲しみに、彼女は途方に暮れた。しかし、経済的には困ることはなかった。
夫の残した遺産は、二人の子どもを養育するうえで十分すぎるぐらいであったし、年金も支給され、その後のマサコの生活は保障されていた。