「ダイバーシティ週間」やりました② (月)朝礼トークです | スクール・ダイバーシティ

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成蹊高校生徒会の1パートとして活動しています。あらゆる多様性に気づく繊細さ、すべての多様性を受け止める寛容さ、疎外や差別とは対極にあるこんな価値観を少しでも広く共有したいと思って活動しています。

 今回は、「ダイバーシティ週間」を振り返る2日目です。初日(月)の朝礼トークを紹介していきます。

 初日、11/20(月)のコンテンツはこちらです。

① ダイバーシティ週間スタート(生徒部主任教員Aさん)
② りゅうちぇる(ryuchell)と「らしさの呪い」(SD担当教員Kさん)
③ アンチ・レイシスト宣言(SD常連教員Sさん)

① ダイバーシティ週間スタート(生徒部主任教員Aさん)
 まずは、11/20(月)ですが、スタートは生徒部主任のあいさつ。ダイバーシティ週間の朝礼では、ふだん聞くことのできない教員たちのダイバーシティ・トークがあること、そんなことも含め、この企画を通じて、「ダイバーシティ・カード」にあるような多様性をあらためて考えてほしい、という内容でした。あまり時間がないということで、ずいぶん急かしてしまいましたが、コンパクトなスタートのトーク、ありがとうございました。


② りゅうちぇる(ryuchell)と「らしさの呪い」(SD担当教員Kさん)
 つづいて、スクール・ダイバーシティ担当教員からのトーク、ryuchell(りゅうちぇる)と「らしさの呪い」という感じのトークでした。当日は、教育現場限定ということで、写真も少なくないスライドを各クラスのテレビモニターに映しながらの話を進めましたが、ここではスライドは控えて、トークの内容のみで行きます。

 SD担当教員のKです。よろしくお願いします。実はもう10年間やってるんですけど、「あらためて」がんばろうって思ったきっかけ、というか出来事があって、それは、この夏に亡くなってしまった、りゅうちぇる、なんですね。ダイバーシティな活動をしてる人にとっては、もうなんだか、太陽みたいな人でした。

 りゅうちぇるは子供のころから、「あたりまえ」や「らしさ」にハマらなくて、それで苦労したみたいなんですけど、でも、そんな、「“らしさ”にハマらない自分」を表現する楽しさを発信するようになるんですよね。この写真みたいな感じ、「かわいいものが大好きなカラフルな男の子」だったり、「男の子でも女の子でもあるようなおしゃれ人間」だったり、「誰も見たことのないような家族」を目指す、そして、絵に描いたような女の子としてのりゅうちぇるとか。

 つまり、「こんなふうにはみ出していくのもありなんだよ」―って、多様性を全肯定してくれて、明るくて、穏やかで、楽しそうで、めちゃめちゃ賢い。

 で、それに甘えてしまった、結局、りゅうちぇるにすべて背負わせてしまったっていう、すごい後悔があります。

 だから、自分たちでやれることをもっともっと―って思ったし、なによりも、りゅうちぇるを追い込んだ「あたりまえ」や「らしさ」―「呪い」みたいなものだと思うんですけど、そんな「呪い」を、やっぱり放置できない、そんなふうに思いました。

 ということで、「あたりまえ」や「らしさ」にフォーカスしますが、まずは、こういうみなさん―「あたりまえ」や「らしさ」を、特に意識しなくても「問題なく」やっていける大多数のみなさんのことですが、そんな幸運な人たちには、この「ダイバーシティ週間」で示される、「いつもとは違う“あたりまえ”」にちゃんと困惑してほしい。そこからかなと、思います。

 一方で、「呪い」に苦しんでる人たちには、「自分を」、ではなく、「あたりまえ」や「らしさ」の方を疑ってほしいし、柔軟で寛容な「あたりまえ」や「らしさ」はありうるのだ―っていうことを実感してほしいです。

 大切なのは、もっともっと「違い」をリスペクトする、「違い」を楽しむ。「“あたりまえ”や“らしさ”にハマらない存在」をリスペクトする、そこから見える世界をいっしょに楽しむ―ということ。

 で、同時に、「自分の中の“あたりまえ”ではない自分」、「“らしさ”からはみ出してしまう自分」、いると思うんですよ、自分の中に。それを大切にする、むしろ、そんな「はみ出していく自分」をこそ誇らしく思えたりするとナイスかなと。

 だから、例えばこのフレーズ、「自分の変を飼いならせ! 誰かの変にあこがれろ!」―何年か前の文化祭で思い付いて、すごく気に入ってるんですけど、こんなフレーズがみんなの頭に標準装備されるといいなと。そうすれば、柔軟で寛容で「呪い」ではない「あたりまえ」や「らしさ」が見えてくるんじゃないか、そんなふうに、考えています。

 「ダイバーシティ週間」ではいろいろな情報を投げていきますが、それが、「あたりまえ」や「らしさ」の多様化につながるといいなと思います。
 ということで、みなさん、よい1週間を、ごきげんよう。



③ アンチ・レイシスト宣言(SD常連教員Sさん)
 初日の最後はdunchはじめ、SDの様々な場面に顔を出してくれる世界史教員のSさん。ストレートなアンチ・レイシスト宣言で、「いつもとは違う一週間」を予告してくれたと思います。

 今から、差別の話をしたいと思います。「あ、差別の話か、そんなものは自分の周りには無いし、自分もしていないから関係ない」とスマホに手を伸ばした皆さん。そんな皆さんこそ、「差別に最も近い」のです。

 差別は私たちの身近にあり、しかも一回無くせばいい、というものではありません。差別は「つねにすでに」起こっているのです。だから差別を無くそうとするのであれば、私たちはつねに差別に反対しつづけなければならないのです。ここにおいて、差別から距離をとること、差別に無関心であること、そして「差別に中立であろうとすること」、これは、差別を放置し強化することになります。

 では差別とはなんなのでしょうか? この疑問が浮かんだ時点で、あなたは「差別をする側」にいるのです。差別は、差別をする側からは見えません。しかし差別される人のアイデンティティは壊され、殺されるのです。差別は人をバカにするだけではなく、人を殺すのです。残念ながら、歴史がこれを証明しています。そして、この殺す力を温存してしまうのが「差別が見えない人たち、マジョリティ」なのです。差別は、そんな「力」が生み出す問題なのです。

 このように、差別はつねにすでに身近で起こっており、そして人を殺す危険をはらんでいます。ここまできたら、スマホをいじっている場合ではないことが分かったでしょう。私たちは、つねに人を殺す力を持っているのです。だから、つねに「これは差別ではないか?」と疑って、差別を取り除きつづけなければなりません。私も偉そうにこんなことを言っていますが、なかなか難しいことです、しかしだからこそ宣言する必要があります。私たちは、絶対に差別には反対ですし、反対しつづける、と。


 わたしたちの「ダイバーシティ週間」はこんなトークからスタートしました。明るくてカジュアルで楽し気な世界とヘヴィで逃げ場のない世界はつねに紙一重なのです。二日目以降のトークや企画についてはまた。