「ダイバーシティ週間」やりました③ その他朝礼トークです | スクール・ダイバーシティ

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成蹊高校生徒会の1パートとして活動しています。あらゆる多様性に気づく繊細さ、すべての多様性を受け止める寛容さ、疎外や差別とは対極にあるこんな価値観を少しでも広く共有したいと思って活動しています。

「ダイバーシティ週間」のつづきです。

 

11/21(火)TV朝礼トーク

 2日目のトークはdunch常連教員たちです。「歴史の中の“らしさ”」(日本史のSさん×世界史のSさん×世界史Kさん…「やっぱり」というべきか、現状、社会科ばかりなんですよね)。

 

 超ダイジェストで。ひとつは、「らしさ」に縛られなくてもいいんだよ、大丈夫、例えば「男らしさ」に絞っても、歴史の中でその理想は大きく変化してるし、韓国男性アイドルたちの洗練されたメイク姿を見れば、今もその変化は続いている、だから、「らしさ」を「呪い」のように怖がらなくても大丈夫だよ、という話。

 

 それから、これは時間取れなかったのですが、歴史を学ぶことは異質な他者と出会い続けることで、それはなんだか「解放感」を味わえるという話(日本史のSさん)です。異質な他者に出会って「身構える」のではなく、「解放感」!これおもしろそうなんですけど、あらためて時間を作って、と考えてます。

 

 もうひとつは、アジア太平洋戦争中、戦争遂行のために都合よく作られようとした「女性らしさ」。「贅沢は敵だ」、モンペにすっぴんで銃後を支える女たち、パーマなんかもってのほか。でも、それでもこんな女性たちは案外たくさんいた―「石を投げられてもパーマをかけたい」。

 ここには「装い」が持つ底力、「らしさ」を打ち破る個の力みたいなものを感じます。そして、そんなふうにこの事例にポジティブな何かを感じているというニュアンスが朝礼を通じて全学に放映されたことも、悪くない、というか、すごくよかったかなと。こんな話を交わす3人がすごく楽しそうだった様子もナイスでした。

 

 ちなみに、トークに際して直接参照していたのはこんな本です。スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ『戦争は女の顔をしていない』(岩波現代文庫2016年)、飯田未希『非国民な女たち』(中公選書2020年)、若桑みどり『戦争がつくる女性像』(ちくま学芸文庫2000年)、ジョージ・L・モッセ『男のイメージ』(作品社)『なぜ美を気にかけるのか』、Kam Louie, Theorizing Chinese Masculinity:Society and Gender in China, Cambridge UP,2002.

 

 毎週水曜は校長主宰の朝礼ですが、11/22(水)については「ダイバーシティ週間」にふさわしい話をということでお願いし、日本の歴史的な成り立ちの多様性についてトークしてもらいました。翌23(木)は休日(ホント、これでひと息つけました)。

 

11/24(金)TV朝礼トーク

 そして、迎えた24日(金)は生徒たちが作ったトーク、「ルッキズムについて」。これは、インパクトあったと思います。学校としては、染髪もメイクもアクセサリーもダメです 。ただ、そのチェックを生徒一人ひとりに対して行うようなことはありませんし、問答無用みたいな指導も行われていません(たぶん)が、それでも、窮屈に感じている生徒はたくさんいるということでしょう。「もやもや/わがまま」を募集しても「装い」関連の声は少なくありません。スクリプト原案もスピーカーもスライドも、スクール・ダイバーシティのなかに立ち上げたルッキズムチーム(高2のIさん、Hさん、Yさん)。これはフルで。

 

TV朝礼トーク「ルッキズムについて」

ABC:おはようございます。 

 

A:今日は、生徒から先生まで日々関わりがあるけれど、あまり実感されていない問題、「ルッキズム」についてお話したいと思います。 

 

B:さっそくですが、皆さんはルッキズムという言葉をご存知ですか? ルッキズムとは「美男子・美人を持ち上げ、逆に身体的に魅力的でないと考えられる人々を差別的に扱うこと」を指します。シンプルに言うと、「人間の価値を測るうえで〈外見〉を最も重要な要素とする考え方」です。 

 

C:例えば、容姿を笑うようなことなどは、もちろんルッキズムです。イメージしてみてください。何気ない日常にルッキズムはないか。実は気づかないうちに皆さんも、ルッキズムを押し付けられ、そして、押し付けているかも知れません。 

 

A:具体例を上げてみます。最近では、面と向かってというよりは、やはりSNSだと思います。例えば、美容整形した人の投稿へのコメントで、「可愛くなった」とか「めっちゃイケメン!」という言葉がある一方で、「整形してもこんなもの?」「〇〇は整形していないけどこれ以上」などといったコメントを目にします。 

 

B:他にも、「モテる女子の特徴」や「理想の男子」という感じで、まるで見た目に「正解」があるかのような投稿を見たこはありませんか? 電車通学の人は特に身近だと思いますが、車両には、美容整形の広告や、脱毛、ジムなどの広告があふれていると感じることがあります。 

 

C:そこに描かれているのは「正解」なのではないでしょうか? 私たちの日常は、そんな「見た目の正解」に囲まれていて、まるでそうしなければいけないような空気に追いこまれている――そんなふうに感じるのですが、どうでしょう? 

 

A:そして、そんな「正解」から「自分の心」を守る方法のひとつとして「メイクという選択肢」があります。学校という空間では、どうしても「メイク」はネガティブなイメージになります。「自分を派手に飾り立てたい生徒」がやること?——という感じだと思いますが、ここからは、「ルッキズムという社会問題」を考えるという観点からメイクついて考えたいと思います。 

 

B:世の中には「メイクをすることで、本当にギリギリ、ようやく自分の心を保てる」——「メイクは自分を守る鎧だ」と感じている人がたくさんいます。つまり、 現代社会における「メイクをしたい気持ち」は、「自分を派手に飾りたい気持ち」というよりも、「見た目の不安から自分の心を守りたい気持ち」の表れなのだと思います。 

 

C:そして、近年の社会学や社会心理学では、これこそが、ルッキズムが社会に振るう力なのだ——と考えられています。「見た目を正解に合わせなければ」生活できないと、誰かに思わせるような、そんな社会的空気を構築しているのがルッキズムだということです。 

 

A:「メイクする理由」のアンケートを見ると55歳以上の女性は「見出しなみ・マナーとして」、10代から20代の若者は「他の人からきれいに見られたい」「自分に自信を持ちたいから」という結果が出ています。「周りと比べられるからちゃんとしないと、綺麗でいないと」——ここには、「正解」に縛られて苦しんでいる心があるのではないでしょうか? 

 

 B:年齢を問わず、誰もが「正解」を求められているわけですが、とりわけ日本の高校生は、様々な「正解」の圧を受けているような気がします。「メディアが示す正解」「学校が示す正解」「保護者が示す正解」「仲間内の正解」——私たちは、見た目の不安を煽られ、困惑し、不安を感じながら日々を過ごしているような気がするのです。 

 

C:でも一方で、「正解を押し付け合わない社会」も存在します! 自分たちの海外経験を振り返ると、「自分の外見をジャッジされない心地よさ」「外見を気にせずに過ごせる心地よさ」をたしかに感覚していたのです。外見を褒めるポイントは、アクセサリーやメイクスキルであって、それは「変えることができる外見」なのです。 

 

A:みなが思い思いに違うものを身に着けていて、それぞれのセンスでありのままに存在できる社会はダイバーシティな社会なのでは?と思いました。このような社会が少なくともアメリカやカナダ、台湾では実現されていると実感できました。日本で実現することだって不可能ではないと思いませんか? 

 

B:成蹊は他の私立高に比べると、選択肢が多いです。例えば、カバン、靴などはそうです。ですが、先ほど述べたような「褒めるポイント」となるアクセサリーやメイクは禁止されています。そうすると「自分では変えられない素のまんまの自分」をジャッジされることになり、それは本当に苦しいことです。 

 

C:ルッキズムな一言で深刻な傷を負うことだってあります。容姿を気にしすぎて起こる摂食障害や、自分の顔が嫌い!という「醜形恐怖症」はルッキズムが生む悲劇なのです。 

 

A:少し長くなってしまいましたが、まとめたいと思います。わたしたちは、このルッキズム問題に本格的に取り組みたいと考えています。今日はその第一歩として、ざっくりといくつか問題を指摘してみました。 

  

B:解決のためには、自分がルッキズムな発言をしないということはもちろんですが、わたしたちにとっての身近な社会である学校で問題を共有するということがスタートになるかなと思います。例えば、「ダイバーシティ宣言」に「反ルッキズム」の姿勢を取り入れようということで、話し合いを進めているところです。 

 

C:明日でダイバーシティ週間は終わってしまいますが、このテーマをいっしょに考えてもらうことで、ダイバーシティへの柔軟さを共有し続けることができたらなと思っています。

 

ABC:よろしくお願いします。 
 

 わたしたちは、「メイクしたい気持ち」に、自分を飾り立てて目立ちたい、というよりも、むしろ、悪目立ちしなくてすむように、そのためにこそメイクをしたいという感性や、誰かに見せるというよりも、自分で自分を肯定したい、自分で自分をエンパワーしたいという感性を見いだすわけです。学校の「身だしなみ指導」が見落としてきた、あるいはスルーしてきた観点から「メイク」を論じたこのトーク、これはちょっとおもしろいですよね、学校側の「身だしなみ指導」は、これにどう応えるのか、ということになるでしょう。このとき3人の生徒はスクール・ダイバーシティを代表して、全校生徒・教員の前に立って、学校が示すそれとは異なる「装い」についての考え方を示したわけですから。

 

 生徒、教員問わず、マジョリティ仕様にくつろいでいる誰かたちにとって「キルジョイ」であり、「ポリス」であって、なんだかちょっとイラっとさせがちなスクール・ダイバーシティの声が、生徒たちから歓迎されそうだという点もちょっとおもしろいです。思い切りよくはみ出してみた3人は、放送のあと、クラスメイトや友だちからポジティブな反応を受け取ったということで、それもよかったし、何よりも、「わがまま」に見えるいろいろや自分だけの「もやもや」に思えてしまう何かが、「意見」や「提案」になりうるのだ、という感触が広く共有されるかもしれないというのが、ナイスです。

 

 いずれにしても、この朝礼トークは、学校とは最も相性の悪いテーマのひとつとも言えそうな「メイク」、そのルールについてちゃんと話し合いましょうよ、という提案、「学校のルール」を学校だけでなく、生徒と学校が対話を通じて見直していく、作っていくという、「ルールメイキング」の試みを成蹊でもという議論につながるものでもありました。そこは「ルールはルール」が通用しない時空になります。そのためのケーススタディとして「メイク禁止/解禁」をめぐる対話を、というわけです。

「メイク禁止/解禁」は「ルッキズム」という社会問題とも、フェミニズムの動向、自己表現、ジェンダー表現の多様性という問題とも密接不可分だと思われ、スクール・ダイバーシティが提案するケーススタディのテーマとしてぴったりだし、張り巡らせたアンテナの繊細さと、「ダイバーシティ週間」の朝礼でこの表明という、なんというか、いろいろな意味で期待を裏切らない感じ笑、すすんで出る杭になっていく、めんどうくさいことにこそ首を突っ込んでいく感じ、これですよね、スクール・ダイバーシティは。

 

11/25(土)TV朝礼トーク

 このイベントの最後に、再び担当教員が朝礼でトークさせてもらいました。ダイバーシティ週間は終わるけど、ダイバーシティの活動はぜんぜん終わらない、「らしさの呪い」と「ルッキズム」は手を取り合って猛威を振るってるし、学校中バリアだらけだし、差別をしなければいいんでしょ? くらいに思ってる人ばかりに見えるし、もうやることはいくらでもあるのだ、という話をして、仲間を募ったわけですが、要するにこういうことです。めんどうくさいことをやろう、めんどうくさいやつになろう、「スクール・ダイバーシティする」っていうのはそういうことだよ。

 

もう一回、「ダイバーシティ週間」になります。ではまた。