今年も、成蹊大学文学部竹内敬子先生の講義「人権とジェンダー」におじゃまする形で、トークライブ「スクール・ダイバーシティってなんだ@成蹊大学」をやらせていただきました。竹内先生、貴重な時間をありがとうございます。わたしたちにとっても、このイベントを準備し、そして、大学生たちに語りかけるという経験は、自分たちのやっていることを振り返り、さらに前を向くためのたいへん貴重な積み重ねになりました。また、竹内先生が、こんなことを言ってくれたことも励みになります。
「学校間交流というものは、よくあることですが、大学と高校が連携するというと、大体、高校生が大学の教授の話を聞いたり、大学生の話を聞いたりということが多いです。ですから、高校生が講義を聴く、のではなくて、高校生が大学生にトークをする、という形をとることができるのは本当に素敵なことだと思います。」
来年につなげるためにも、今年のイベントを形にしておきたいと思います。というわけで、以下、トークライブダイジェスト。
1.はじめに
進行生徒f:スクール・ダイバーシティのコンセプトは、こんな感じ。「マイノリティ性-多様性-可能性」。そして、「マイノリティ性と可能性をつなぐキーワードとしてのダイバーシティ」を重視している。また、「大多数と違う視点に立ったら、今までとは世界が違って見えた!」を大切にすることを推している―ということで、よろしくお願いします。まずは、活動の経緯とコンセプトのコンセプトの確認から。
2.コンセプト
担当教員m:この活動を立ち上げたのは五年前。授業の中から始まった。学校という場所は、「みんなが日本人、見た目どおりの性別、異性愛者、その家族もみんなそう」っていう形を望んでいる。だから潜在的にはそうじゃない人はいない方がいい、と思われている。大勢にとって楽しくても、誰かは沈黙している。誰かの沈黙によって成り立っているようなそんな学校を、もっとあらゆる人にとって居心地がいい場所にしたいと思うし、この活動を大学とも共有していきたいと思っている。
生徒f:コンセプトをもう少していねいに。「ダイバーシティ」は、意味としては、「多様性」だけど、わたしたちはそれを、イコール「可能性」として考えていく。例えば、人と違うことやヘンテコに見えることを大切にする。つまり「マイノリティ」性を大切にする。それを「ないこと」にしちゃったり、排除したりしないようにする。「それこそが、ポジティブな変化につながるんだっていう発想」に乗って来てほしいと思ってる。
生徒f:「マイノリティ性と可能性をつなぐキーワードとして多様性・ダイバーシティを重視する」という感じ。で、「大多数と違う視点に立ったら、今までとは世界が違って見えた!」っていう実感を重ねてほしいと思ってる。
生徒m:それは、例えばどんなことかというと、僕たちはこの間の土曜日に車イスで吉祥寺をチェックするっていうイベントに参加してきた。何が見えたかっいうと例えば、中町通りの路面ってきれいに石畳風になってて、おしゃれだし、かわいいと思ってたけど、車イスにとっては難所!
教員m:自動販売機、ボタン届かない!車椅子優先エレベーター待ってると、トイレに間に合わない!―という感じで、いろんなことが見えてくる。で、「見えてくる」と、世界を自分が変えられるような気分になる。これは楽しい。でも、このとき僕はこんな経験もしていて、それはこう。30分くらい車イス乗って、で、降りるときはもうすごく疲れてて、そんで「うわあ、疲れた、解放されたあ」みたいなことを言ったら、そしたらずっと車イス生活の人に「僕は解放されないんだよね」って、スマイルで言われて、ホント、はずかしいなって。
生徒m:こんなふうに、活動を通して世界が違って見える。いままで気づかなかった何かに気づくと、自分はそれを変えられそうな気がしてくる。違う視点に立つことで、モチベーション上げたり、カン違いで痛かったりの経験をたくさんの人にしてもらいたいと思うし、だからこそもっと広く外に向けたアピールをしたい。そうすれば、いろいろなマイノリティが安心して成蹊に来てくれると思うし、それは、確実に、これまでの成蹊にはない世界の見え方をもたらすと思う。これは双方にとってポジティブだし、おもしろいのでは。
進行生徒f:こんなことを意識しながら、活動しているということで、具体的な話に入っていきたい。コンセプトは必ずしも目に見える形として現れるわけではないが、この「宣言」は、はっきり見えるものだし、目に見える結果にしたいと思っている。
3.「多様性と平等についての宣言」(以下「宣言」)を生徒手帳に!
(1)「ダイバーシティ宣言」の内容
生徒m:「マイノリティ性-多様性-可能性」という発想を共有するためには、学校が、学校としていかなる多様性も排除しないという姿勢、いかなるマイノリティ差別も認めないという姿勢を示すことが不可欠だと思う。
生徒m:そもそも「ここにマイノリティがいる」ということをしっかりと認めなければ何も始まらない。その意味で、この宣言は本当に大切だと思う。
「多様性と平等についての宣言」
*成蹊高等学校の生徒は以下に挙げるものを含む多様性を受け入れ、それらを理由に誰に対しても、直接的にも、間接的にも差別、疎外をしません。人種、社会的性別、生物学的性別、民族的または社会的出身、国籍、身体的特徴、性的指向、年齢、心身の障害、宗教、文化、言語、家柄、家庭環境、学内外の所属または活動、趣味趣向など。
*成蹊高等学校の生徒は、学校内の平等が損なわれる場合、または、損なわれると感じられる場合、そのような言動に対してつねに繊細であることを心がけ、適切な方法でそれらの根絶に努めると同時に、高等学校に対して、適切な方法での解決求めます。
*成蹊高等学校の生徒は、一人ひとりの多様性に寛容になり、互いにそれを尊重し合うような学校生活の実現を求め、多様性をないがしろにする全てを根絶するために努力を惜しみません。
生徒m:というわけで、スタート当初からの目標の1つは、この「宣言」を生徒手帳に載せること。内容は、南アフリカの憲法をベースに、学校ならではのテーマも盛り込んだもの。家庭環境や趣味のところなんかはそういうこと。これ、家が大変なことになってて学校生活にも影響が、っていう人は実は少なくないし、あとオタク差別?やスクールカーストの問題を視野に入れてるということ。
(2)学校と生徒に働きかける
生徒m:この企画をいろいろなやり方で、学校に働きかけてきた。例えば、去年の3年生のメンバーが全クラスをまわって宣伝しました。これ動画を見ていただきたいと思います。3分くらいです。
*朝礼訪問ミニトークライブ「宣言のない成蹊、宣言のある成蹊」
A:おはようございます、スクール・ダイバーシティのAです。
B:同じくBです。今日は、この宣言(大きめのコピー持ってくる)を生徒手帳に載せたい、というか、載せるべきだ!ということでやって来ました。
A:で、さっそくなんですが、いろいろ学校側に働きかけてるんですけど、なかなか載らないんですよねえ、何か陰謀とか?
B:いやいや(笑)。
A:―ということで、今日はあらためて「宣言」の意義を考えてもらおうと思っています。
B:内容はかなりいいと思います。人種、性別とかはもちろんだし、メンタルの障害とかオタクのこととかLGBT系とか、高校レベルではないですよ、たぶん。
A:ただ、「自分はそういうんじゃないし、いろいろめんどくさそう」っていうのはあると思いますけど。
でも、ちょっとしたケガひとつで誰だってマイノリティになっちゃうっていうことを想像してほいと思います。
B:そう、で、そんなとき、例えば、スロープがあって困る人はいないでしょ。それに足が痛くてもスロープがあれば「もう少し行ってみようかな」ってなるかもれないし―まあ、ここでちょっと想像してみたいと思います。「宣言」も「スロープ」だと思うんですよ。
A:例えば、人に言いにくい何かを抱えてて困ってる新入生がいて、「高校だったら」、とも思ってるけど、すでに「あきらめ」も入ってて、「居心地の悪い日々」を覚悟しはじめてる。
B:「どうせ3年間、いや長いな、3年間…大丈夫か、自分」―という感じの生徒が、なんとなく生徒手帳をペラペラやっている、という状況です。
A:このとき「宣言がない成蹊」だったらどうでしょう?「正しい制服の着方」(苦笑)、「校則」(…)、校歌。パタリ。
B:手帳を閉じます。そして二度とそれを手に取ることはありませんでした―だいたいこんな感じでしょう。で、3年間ですよ。
A:じゃあ「宣言」があるとどうか。ペラ、「宣言」が目に入る、ふーん、「多様性」ねえ、なんかキレイゴトだけど、でも、いや、ここに、自分いるかも―。
B:ということで、まとめです。「宣言」って、やっぱり、スロープみたいだと思うんですよ。あれば「自分は守られてる」っていう気持ちにもなれるし、それがあって困る人はいないし、「きっかけ」でもある。これのおかげで、もしも誰かが「声上げても大丈夫かも」ってなったりしたらスゴいと思います。
A:で、声が上がるたびにみんなちょっとずつ、見えなかったものが見えてくるようなイメージで、これは新たな可能性が広がるっていうことですよね。
B:「宣言」を載せることは、学校に関わるみんなが少しずつマイノリティ性と関わることだと思うんですよ、で、それはイコール、可能性を広げることにつながる。こんな発想の学校なんてほかにはないと思うし、悪くないと思うんですけど、どうでしょう。
A:ということで、「宣言」を生徒手帳に、というアイデアをポジティブに考えてもらえればと思います。今日は朝から、ありがとうございました。
担当教員m:このスクリプト作るのはたいへんだった。緊張もあった。シナリオ作りながら、ケンカした笑。でもそれは重要なテーマだった。僕は、気の効いた内容やおしゃれな感じの皮肉をちりばめたかった。それは、「正義なこと」は、どう語るかがすごく大切だから。陳腐さやダサさと紙一重だから。簡単に偽善者になってしまう。そうなると声は届かない。でも、ある生徒から、カッコいい内容でも、理解できなければ意味がないし、理解できない人を置き去りにするようなやり方でいいのかとの反論があって、折衷案が採用(生徒も「キレてた」し、教員も「ムカついてた」けど、こういう厳しい議論ができることは悪くないでしょう)。だから、「トーク」はちょっと中途半端なノリになってる。ただ、この「中途半端さ」は、すべての社会活動につきものの問題を反映しているという意味で重要。
生徒f:これは、全ての社会活動に共通する課題だと思う。陳腐さを避けることと、いろんな人に分かってもらうことということの両立。
生徒m:で、この「宣言」が、なんと生徒手帳に今年も載せてもらえない!それにしてもなぜ載せてもらえないのか、ということは重要。学校という制度の本質的な排他性ともからむので。またあとで考えたい。
ということで、つづきは後編で。