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この学生英語ミュージカル団体は、毎年二月にメンバーを集め、五月の本番終了と同時に解散する。

そして一部のハマってしまったメンバーが残り、次の年の幹部として二月まで準備する、という流れによって成り立っている。

この団体の稽古は、それまでの舞台とは全く違い、とにかく感動に溢れていた。

もちろん、本番はそれ以上だ。

5月の公演が終わると、案の定、僕は次の年の幹部として動き始めてしまった。

今になって考えてみれば、僕の大学生活が始まって以来、初めて幹部的な立場になりたいと思えた団体だったのかもしれない。



その傍ら、夏には一年前にミュージカルサークルを一緒に辞めたメンバーたちと公演を打った。

ここでは圧倒的な人材不足によって、初めてダンス指導的な立場と、一部振付を経験することになる。

なんとも言えない感じでこの公演は終了。



秋が過ぎるころには、英語ミュージカルの準備が本格化してきた。と言っても僕に課されたのは主にダンス指導的な仕事だったので、とにかくレッスンに通い詰めた。なんせ経験が足りなすぎる。



そんなこんなで二月を迎え、稽古期間に入ると、とにかく公演を成功させたい一心で、次々と目の前に表れる課題をこなしていくことで精一杯だった。朝は8時前から、夜は20時過ぎまで、ひたすら稽古という期間が続いた。

そうして5月の本番は二日間で観客動員4000人を超え、公演自体も大成功に終わり、舞台に携わるようになって初めて120%の満足感を味わった。本気で「今死んでもいい」と思ったのは後にも先にもこの公演が終わった瞬間だけだ。



この年、僕は大学を休学することを決めた。手続きの関係で正確には休学という形はとっていないが、とにかく一年間、舞台に本気で向き合ってみようと思い、この年はバイトと舞台に明け暮れる生活となる。



さて、次はどうしよう、なんて考える暇もなく、夏のミュージカル公演に振付としてのお誘いを頂く。まだまだ経験は足りないけど、やらせてくれるんならやらせてください、ってことで初めて振付師として公演に関わることに。このときの振付は僕以外に一人と、アシスタントが一人いたが、今思えばこのチームは中々バランスのとれたチームだったと思う。しかし、この公演は本番中に新型インフルエンザの猛威に曝され、公演中止を余儀なくされる。



秋になると、今度は英語ミュージカルのメンバーから、5月にやったミュージカルのショートバージョン的なパフォーマンスのお誘いを受ける。ここでも一部振付をやらせてもらったりして、このパフォーマンスはとにかく楽しませてもらった。



このパフォーマンスの練習中、同じ建物で別の公演の準備をしていた友達と偶然鉢合わせ、振付の依頼を受ける。とりあえず一曲だけでいいとのことなので、すぐに作ることに。それまでの振付の現場と違い、基礎練習を積んでいない前提での振付の難しさを痛感した。



そして2月、一年間貯め続けたお金を全て注ぎ込み、NYへ。

とにかく一番てっぺんを見てみたいという一心で向かったNY。

よく考えてみれば約10年ぶりの海外。

もっとよく考えてみれば初めての一人旅。

とにかく全てが刺激に溢れていた。

なるべく長期間滞在するために、あまり治安のよろしくない地域の安ドミトリーを選んだ。

…結果、たまに英語が通じない。そこはスパニッシュハーレムと呼ばれる一画だった。

舞台のクオリティーの高さは当たり前。クラブではみんなでhiphopを大合唱。ダンススタジオのレッスンを受けてる生徒のレベルがおかしい。アマチュアナイトに出てくるアマチュアのレベルもおかしい。駅で歌ってる素人のレベルもおかしい。スタバで鼻歌歌ってるお兄さんのレベルもおかしい。さすが、世界中から集まってきてるだけある。



いろんなものを観た。いろんなものを聴いた。いろんなことを感じた。いろんなことを考えた。



そうして自分なりに出た結論は、何の結論かよくわからないけど、どうにでも生きていける、ということだった。


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教育学部には僕の学年まで、学際コースという少し変わった制度があった。

それは学部内で二年進級時に希望を募り、その中で条件を満たした学生が各学科から10%集められて構成される、言ってしまえばなんでもありコースだった。必修は他の学部や学科と比べても極端に少なく、理文系の学生が混合されたそのコースは、中々に面白いメンバーが集まっていた。

教育学部に入学を決めた時点でこのコースを狙っていた僕は、一年時の化学薬品にまみれる生活を捨て、予定通り二年時からこのコースに入ることになった。



そんな二年目の春、今度はミュージカルサークルに入った。 そこに集まった新入部員は、何故か半分が二年生。自分で言うのもなんだが、二年目に新しいサークルに入ろう、しかもミュージカルサークルに、となると普通の人間ではない。普通の人間とは中々気が合わない僕にとってはとても素敵な出会いだった。



でも、結局ここもなんか違う、ということで一度の出演の後、離脱。



一方、学際コースで新たに出会った友人から大学企画のミュージカル公演に誘われていたため、そちらに参加することに。その後、二年時は活動のほとんどをこの企画の準備で過ごすことになる。

かろうじてバスケサークルにも顔を出してはいたが、12月の本番が近づくにつれそれもどんどん減っていき、年度が変わる頃には一切行かなくなった。



この公演も自分の中では納得できるものではなかったが、同時に多くの出会いがあった。

公演が終わると、この公演で舞台監督をしていた先輩から英語ミュージカル公演のお誘いを受ける。ダンススタジオにも通ってみたいと思い始めていたので迷ったものの、とりあえずガイダンスだけでも、ということで、友達と一緒に行ってみることに。



ガイダンスは無駄なテンションの高さにドン引き。

一度は参加を辞めようと決意したものの、前回公演のDVDを見せてもらったところ当時の自分にとっては衝撃的なクオリティの高さだったので、意を決して参加することに。



同じころ、でもやっぱりダンスもやりたい、ということで友達に紹介してもらったスタジオに通い始める。ジャンルはよくわからなかったのでとりあえず簡単そうなクラスは全部出てみることした。



結果、この年の2月3月は毎日朝から夕方までミュージカル稽古、夜はダンスレッスンという今考えるとなかなか凄い生活を送っていた。

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5年前、春。

高校、予備校と同じクラスだった友達と、同大学・学部・学科・専修に入学が決まる。一学年50人足らずのマイナー学科なのに。地球科学専修なのに。

そんな腐れ縁な友達と向かった入学式。


遅刻。


着いてみると、会場は既に満席。自分の入学式が立ち見だったのも今となってはいい思ひ出。

教わってもいないのに校歌斉唱が始まり、教わってもいないのにみんな歌える。

ドン引き。

僕は今でも「わっせだーわっせだーわっせだーわっせだーわっせだーわっせだーわっせだー」のとこしか歌えません。



大学に入ってからやりたいことが大量に溜まっていた僕は、とにかくいろんなサークルを回った。

結果、バスケサークルとバンドサークルに入ることに。しかしバンドサークルは雰囲気が合わず、ライブを一回やっただけで抜けてしまう。バスケサークルも最初のうちは3つくらいかけ持っていたが、最終的には一つに落ち着いた。



落ち着いたバスケサークルはゆるゆるの半ば飲みサー。なんでこのサークルに落ち着いたのかは自分でもよくわからないが、僕にとって一番大学生らしい一年間を共にしたサークルであることは間違いない。

バイトして、バスケして、授業の空き時間には溜まり場でだべって、飲んで、オールでカラオケして、あるいはクラブに行って、ここには書けないようなこともしたりなんかして。



でも、一年もしないうちに僕はそんな生活に満足できなくなっていった。



二年になったら新しいサークルでも探してみようかと思っていた矢先、高校時代の友人から連絡が入った。

ミュージカルで作曲・出演してるから観に来ませんか、と。

実はそれが、当時まだ活動を始めて間もない山下幼稚宴。

クオリティー云々ではなく、同年代の人たちが楽しそうに歌い踊る姿がとても印象的で、少し羨ましく思ったりした。