康熙大帝 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

○2024年3月1日に、河北省の承徳市を訪れた。北京朝阳站からG961次高铁に乗って、承徳南站まで行った。承徳南站は周囲に何も無いところに建つ駅で、わずかにバス停のみがあった。

○そのバス停から、承德公交69路のバスに乗って、承徳市街を目指した。終点が火神庙站だから、始発から終点までバスに乗ることになる。料金は3元(60円)。

○終点の火神庙站前に建っていたのが康熙大帝だった。承徳で、康熙帝は英雄である。承徳の町中のロータリーの中に建っているのが康熙大帝である。毎日、皆が振り仰いでいるのが康熙大帝だと言うことになる。強烈な印象だった。

○日本のウイキペディアフリー百科事典が案内する康熙帝は、次の通り。

      康熙帝

康熙帝(こうきてい)は、の第4代皇帝玄燁(げんよう、燁は火偏に華)。満洲人、君主としての称号はモンゴル語でアムフラン・ハーン、廟号聖祖諡号は合天弘運文武睿哲恭倹寛裕孝敬誠信功徳大成仁皇帝(略して仁皇帝)。在世時の元号康熙を取って康熙帝と呼ばれる。

西洋文化を積極的に取り入れ、太宗とともに、中国歴代最高の名君とされ、大帝とも称される。その事実は歴代皇帝の中での文字を含む廟号がこの康熙帝と、澶淵の盟を締結させた最盛期の皇帝の2人にしか与えられていないことからも窺える。またの文字も、通常はの高祖(太祖高皇帝)劉邦など、王朝の始祖あるいは再建者に贈られる廟号であるが、康熙帝は4代目であるにもかかわらず太祖世祖に続いて3番目に贈られている。

  康熙帝 - Wikipedia

○別に、中国の検索エンジン、百度百科が案内する『爱新觉罗·玄烨』は、次の通り。

      爱新觉罗·玄烨

      清朝第四位皇帝

清圣祖爱新觉罗·玄烨(1654年5月4日—1722年12月20日),清朝第四位皇帝,清定都北京后第二位皇帝(1661年2月4日—1722年12月20日在位),自号体元主人,年号“康熙”。蒙古人称为恩赫阿木古朗汗;西藏方面尊称为“文殊皇帝”。顺治帝第三子,生母为孝康章皇后佟佳氏。

玄烨8岁登基,14岁亲政,在位61年,是中国历史上在位时间最长的皇帝。执政初期,国内国际形势非常严峻。面对严峻局势,他坚持大规模用兵,以实现国土完整和统一。少年时就挫败了权臣鳌拜,开始真正亲政。九年,肃正朝纲,恢复内阁制度,颁布《圣谕十六条》。成年后,康熙二十年(1681年),平定三藩之乱澎湖海战,统一台湾;挫败沙俄侵略军,签订《尼布楚条约》,确保中国对黑龙江流域的主权;三征噶尔丹,并取得胜利;创立“多伦会盟”取代战争,联络蒙古各部。在政治上加强中央集权;标榜仁政,笼络汉族士人,同时注意休养生息,发展经济。但是晚年倦勤,出现吏治败坏的现象。另外,众位皇子因为废太子事件而争夺皇位,对其晚年政治产生了不良影响。

玄烨是统一的多民族国家的捍卫者,奠定了清朝兴盛的根基,开创出康乾盛世的大局面,有学者尊之为“千古一帝” [5-6] [141],也有学者尊称其为“千年一帝”。康熙六十一年(1722年)农历十一月十三日崩于畅春园,终年69岁。庙号“圣祖”,谥号“合天弘运文武睿哲恭俭宽裕孝敬诚信中和功德大成仁皇帝”,葬于景陵。传位于第四子胤禛

  爱新觉罗·玄烨(清朝第四位皇帝)_百度百科 (baidu.com)

○聖帝としての誉れ高いのが康熙大帝である。その康熙大帝が建てたのが承徳の避暑山荘になる。昨日紹介した『承徳市』の中で、中国の検索エンジン、百度百科には、次のようにあった。

   清康熙四十二年(1703年),康熙修建避暑山庄,成为清王朝第二政治中心。

  清雍正元年(1723年),设热河厅。清雍正十一年(1733年),雍正取“承受先祖

  德泽”之义,赐字“皇承天德”释义先皇秉承天地化育万物的恩德,设承德直隶州

  始称“承德”。

○また、昨年、2023年9月に、台北の故宮博物院を見学してきたが、その際に、「故宮文物」のバックナンバーを幾つか買って来た。その中に、康熙大帝の紹介があった。写真は、その「故宮文物」のものである。