蘇州 | 古代文化研究所

古代文化研究所

古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

○2023年9月11日に、蘇州を訪問した。これまで、ブログ『D3142次電車で杭州から蘇州へ』から、『蘇州博物館』まで、30個のブログを書いている。今回の蘇州訪問も、なかなか充実したものだった。

○実は、当古代文化研究所では、2015年11月に、「富驿时尚酒店(苏州观前店) FX Hotel (Suzhou)」に二泊して、蘇州を隈なく歩いた記憶がある。その時、64個ものブログをものしている。

  ・テーマ「蘇州漫遊」:64個のブログ

  蘇州漫遊|古代文化研究所:第2室 (ameblo.jp)

○江南地方で、蘇州は古都である。それも呉国の都であった時以来、江南地方でずっと、文化を維持し続けている。そういう意味では、貴重な町である。そういうものを随所に見掛けることができる。それが蘇州である。今回の訪問でも、そういうことを実感できた。

○まだまだ、蘇州には見所が多い気がしてならない。それで、改めて、ここに蘇州について、確認する次第である。インターネット検索したら、次のページがヒットした。

      蘇州【Suzhou】

      蘇州旅行の紹介

      水の辺りにある芸術の都

 蘇州は中国で最も河と橋が多い街。 運河が栄えた姿は「東洋の水の都」と言われている。 長江と蘇州の母なる湖と言われる太湖が京杭、呉淞江などの大運河をつくり、支流が縱橫に網の目のようにのび、水の交通網を形成していた。 千年以来数多くの命を育み。地上の天国と呼ばれたこの街は、繊細な呉文化を生み出し、後世に豊かな文化的遺産を残してきた。 今では庭園や運河、崑曲、宋錦、綴織などの絹織技術を代表とする伝統文化が世界文化遺産に登録されたため、蘇州は「世界遺産の都」と賞賛されている。

 沢山の古い水郷の街並み、精巧で簡素な小じんまりとした山水庭園など水墨画のような風景が溢れているので、 歩くスピードを抑えてゆっくり心を静め、どこからか流れてくる崑曲などの民俗楽器のメロディにゆったり耳を傾けるのも良い。 また、庭園の優雅な風景、近くの商店に並ぶ手工芸品、歌のようなしなやかな蘇州方言などの文化に満ちたこの街は、現代文化の活力と融合し、ゆったりとした繊細で刺激的な蘇州を体験しよう。

  蘇州観光の紹介/蘇州市公式観光サイト (suzhoukankou.com)

○ウイキペディアフリー百科事典が案内する蘇州市は、次の通り。

      蘇州市

蘇州市(そしゅうし、中国語: 蘇州市/苏州市、拼音: Sūzhōu、英語: Suzhou)は、中華人民共和国江蘇省東南部に位置する地級市

古くから絹織物で発展した国家歴史文化名城であり、上海市に隣接する地の利があり、現在も省の経済的中心である。

蘇州で話されている蘇州語(蘇州方言/蘇州話)は、北部呉語を代表する方言と考えられていたが、現在は上海語にその座を譲っている。蘇州方言と上海方言とでは、異なる語彙や発音があるが、しばらく会話すれば意志の疎通に大きな支障はなくなる。但し、学校での普通話標準語/共通語)一辺倒による教育により、上海語の事例同様、若者は蘇州語を話せなくなってきている。その問題に対し、学校・教育側は方言の授業を設ける等を検討している。また、上海に比べ方言(蘇州語)によるTV番組が多く見られる。

【歴史】

古くから長江の南に位置する、江南の主要都市として栄えてきた。春秋時代の都が置かれ、呉文化圏の中心であった。伝説によれば、諸樊がこの地を本拠と定め、闔閭が呉の都として整備したと言われている。臥薪嘗胆呉越同舟の舞台である。以後には会稽郡、後には同郡から分離した呉郡の役所が置かれた(同時に呉県の役所も設置された)。代に蘇州の名が始まったが、南朝最後の末の民衆反乱(589年)で町が破壊されて郡の役所なども他の町に移されており、本格的な再建は役所を蘇州に戻した太宗時代以後のことになる。五代十国時代には呉越国の都となり、北宋神宗時代に(首都に准じる都市)への昇格に伴って平江府、には平江路と呼ばれるようになった。この間、南宋遠征軍が平江府を攻撃して再度町は大規模な打撃を蒙った(1130年)が、南宋政府によって再建されている。元末の張士誠も呉王を称して蘇州に都した。になると、蘇州府が置かれて以後は現在の蘇州という名称が固定化された。

  蘇州市 - Wikipedia

○今回、当古代文化研究所が蘇州を訪れたのは、伍子胥の足跡を蘇州に辿ることにあった。伍子胥は紀元前五世紀の人物である。その伍子胥が蘇州の町を作ったとされる。司馬遷の「史記」を読んで、

  乃告其舎人曰、必樹吾墓上以梓。令可以爲器。

  而抉吾眼懸呉東門之上。以観越寇之入滅呉也。

  乃自剄死。

が間違いではないかと思ったからである。

○思っていた通り、司馬遷の「史記」『伍子胥列伝第六』の、この記録は誤りであることが確認された。伍子胥が自分の眼を抉って、掛けるように命じたのは、おそらく、南門か西門である。実際、蘇州の胥門を訪れ、そんことを確認してきた。

○もっとも、司馬遷が「史記」をものしたのは、紀元前一世紀のこととされる。今更、訂正しろと言ったところで、適うはずもない。しかし、このように、それが確認できたことがうれしい。遥々、蘇州まで、そのことを確認に出掛けられたことにも、感謝するしかない。

○今回、蘇州で、寒山寺にも出掛けず、京杭運河を眺めることもしなかった。ただ、苏州四大名园とされる、沧浪亭、狮子林、拙政园、留园のすべてを見て来た。それが思い掛けない収穫だった。中国で、庭園は文化の粋である。そんなことを感じることができた。