○2024年2月29日から3月5日に掛けて、久し振りに北京へ出掛けて来た。中国訪問は、昨年の9月、「寧波・杭州・蘇州・台北旅」以来、半年振りになる。中国への一人旅を始めたのが2012年3月からで、これまで随分、中国各地を訪問して来た。
○それなのに、何故か、中国の首都である北京には全く訪れていない。それもこれも北京は中国文明からしたら、僻地になる。ちなみに、ウイキペディアフリー百科事典では、その歴史について、次のように述べる。
北京市
北京市(ペキンし、中国語: 北京市、拼音: Běijīngshì、英語: Municipality of Beijing)は、中華人民共和国の首都。
行政区画上は直轄市であり、中国の華北の中央に位置する。常住人口は2184.3万(2022年末[2])。中国の政治の中枢であり、上海と並ぶ経済・学術・文化の中心地である。アジア屈指の世界都市。古くは燕京、中都、大都、北平などとも呼ばれた。
【歴史】
紀元前11世紀頃から紀元前222年、春秋戦国時代中期に現在の北京には「薊(中国語版)(けい)」という諸侯国と称された。燕が滅ぼし薊へ遷都した。周の国都洛陽からは遠く離れ、常に北方の匈奴などの遊牧民族の侵入による被害を受ける辺境であった。燕は劇辛や楽毅などの名将によって斉を攻め、70余城を取った。怒れる秦は王翦を率い、首都の薊は紀元前226年に秦によって陥落した。
その後金が遼を滅ぼして支配権を獲得したが、1153年に第4代皇帝海陵王が会寧から遷都を行って中都とした。皇統の和議(宋側では紹興の和議)によって、金の河北支配が確定すると、それまでの会寧では北に偏りすぎていることが大きな要因とみられ、また合わせて中国式の官制改革なども行われた。海陵王は政変で滅ぼされるが、モンゴル帝国の侵攻まで都城が存在した。
モンゴル帝国のハーン位を巡る争いに勝利して、元王朝を事実上創建したフビライ・ハンは、1264年に燕京を中都とし、1270年にはこれを大都と改めて、カラコルムに代わってモンゴル帝国の中心とした。フビライは従来の中都の北東に新たな都城(カンバリク)を築くことにし、1266年から始まった工事は1274年に宮殿を、1276年には城壁を完成させた。更に1293年には通恵河を開通させて大都と大運河をつなげた。ただし、元王朝はモンゴル帝国の要素を引き継いだ国家であり、元の皇帝(ハーン)は夏の間はモンゴル高原に近い開平(上都)に、冬の間は大都に居住する「両都巡行制」を採用した。
○引用が長くなったが、ある意味、北京の歴史は古い。しかし、文化的にも、歴史的にも、北京は中国の僻地であり続けた気がしてならない。文学的にも、北京周辺は辺塞詩の舞台としてしか、登場しないのだから。
○したがって、中国の文化、歴史を扱う、当古代文化研究所が北京を訪れる理由が無かった。ただ、現在、中国の首都が北京であることは、間違いない。それで、およそ三十年振りに、北京を訪れることにした。
○訪れる理由の一つが中国四大名園にあった。昨年9月に、蘇州を訪れ、中国四大名園なるものが存在することを知った。
・テーマ「寧波・杭州・蘇州・台北旅」:ブログ『中国四大名园』
○中国四大名園、
拙政园 江苏省苏州市
颐和园 北京市海淀区
避暑山庄 河北省承德市
留园 江苏省苏州市
のうち、拙政园と留园は蘇州に存在したので、見学して来た。残りの颐和园と避暑山庄も、機会があれば、見学したいと思っていた。
○と言うのも、当古代文化研究所では、京都を訪れ、多くの日本庭園を見物している。また、英彦山を訪れ、ここにも古い日本庭園が存在することを知った。さらに、日本三名園とされる、
石川県金沢市の兼六園
岡山県岡山市の後楽園
茨城県水戸市の偕楽園
のすべてを訪問済みである。
○いろいろと庭園巡りをしているうちに、庭園が文化の集合体であることを理解した。それで、一回、見るべきものを見ておこうと思った。それが北京行きの大きな理由の一つだった。
○もう一つは、これも昨年の9月に、台北の故宮博物院を訪問したことである。台北の故宮博物院見学は2017年7月に引き続き、二回目だった。
・テーマ「台湾旅游」:42個のブログ
○三十年振りの北京がどういうものか。もっとも、三十年前の北京の記憶はほとんど無い。そういう現在の北京を自分の眼で見てみたいと思った。