胥門 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

○すでに、胥門に関して、ブログ『伍子胥と蘇州』、『伍子胥と胥門』、『姑蘇萬年橋』、『相土嘗水象天法地』と書き続けているから、いまさら、ブログ『胥門』は必要無い気もする。しかし、今回の旅行の主目的の一つが『胥門』だったことを考えると、やはり述べる必要がある。

○中国の検索エンジン、百度百科は、蘇州八門について、次のように案内する。

      苏州古城八门

      古城苏州城门建筑

苏州古城八门是破楚门(阊门)、姑胥门、蟠门、蛇门、缪门、干将门、巫门、望齐门等八门合称,是古城苏州具有代表性的八座古城门。

  苏州古城八门_百度百科 (baidu.com)

○その中で、胥門については、次のように記録する。

      姑胥门

“姑胥门”即胥门。苏州的八座城门中, 没有比胥门更富有传奇色彩的了,自然因为它与传奇英雄伍子胥有着太多的联系,即便后代学者再考证胥门与伍子胥并无联系也无用。在苏州老百姓心中需要这么一座门以作纪念:它得名是因“伍子胥宅在其傍”,出名是胥门上又挂过伍子胥的头颅。声名由此威赫,以致越国攻到城下也不敢贸然入城,“望吴南城,见伍子胥头巨若车轮,目若耀电,须发四张,射于十里”,“即日夜半,暴风疾雨,雷奔电激,飞石扬砂,疾于弓弩”,越兵在胥门下供大雄鸡祭祀伍子胥,低声下气地请求让道。伍子胥当夜托梦告示他们由东面入城,倒也不在伍子胥受了贿赂,而在他已经成为神祇,他的怒气已经发泄在钱塘江滚滚的白头潮中,除此也只好按天意行事罢了。现在胥门外已高高地耸立起伍子胥的石象,历史的变迁并没有让人们忘记这位苏州城的“城市规划师”。

○この中に、

  以致越国攻到城下也不敢贸然入城,

  “望吴南城,见伍子胥头巨若车轮,目若耀电,须发四张,射于十里”,

  “即日夜半,暴风疾雨,雷奔电激,飞石扬砂,疾于弓弩”,

  越兵在胥门下供大雄鸡祭祀伍子胥,低声下气地请求让道。

とあるから、やはり、司馬遷の「史記」巻六十六『伍子胥列伝第六』が載せる、

  而抉吾眼懸呉東門之上。以観越寇之入滅呉也。

は、東門ではなくて、この胥門だと言うことが判る。

○また、司馬遷が「史記」巻六十六『伍子胥列伝第六』で、

  而抉吾眼懸呉東門之上。

と表現したのは、実際、越軍が入城したのが東門だったからかもしれない。そのことについては、続けて、

  伍子胥当夜托梦告示他们由东面入城,

とあることからも、確認できる。

○ただ、これはあくまで、民間伝承に基づく話である。実際は、伍子胥が「而抉吾眼懸呉東門之上」と言ったのは、どうも胥門ではなくて、蟠门か蛇门であるような気がしてならない。そのことについては、ブログ『伍子胥と胥門』に書いている。

○その蟠门と蛇门については、次回に述べたい。2023年9月12日に、蘇州八門の一つ、胥門を見学して来た。胥門近くには胥門路が走り、その胥門路が西外城河で架かっている橋が『姑蘇萬年橋』である。往時、蘇州で最も栄えたところであった。

○また、胥門周辺は、現在、「伍子胥纪念园」となっていて、伍子胥を偲ぶよすがともなっている。伍子胥の石像が建ち、『相土嘗水象天法地』の立派な石碑が存在し、多くの文学記念碑まで、林立している。

○司馬遷の「史記」巻六十六『伍子胥列伝第六』を読むと、司馬遷が興奮している様がよく伝わってくる。司馬遷は伍子胥の大ファンだった。実は、当古代文化研究所も、伍子胥の大ファンである。それは司馬遷の「史記」巻六十六『伍子胥列伝第六』を読んだからに他ならない。

○蘇州の町を作ったのが伍子胥だと言う。紀元前六世紀頃の話である。司馬遷は紀元前一世紀ころの人物である。遥か、二十一世紀の私たちにも、伍子胥や司馬遷は身近である。それもこれも司馬遷の「史記」のお陰である。何とも司馬遷は凄い。こういうのが、本当の永遠不滅と言うにふさわしい。蘇州の胥門を訪れ、そういうことを思った。