相土嘗水象天法地 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

○2023年9月12日、留園見学後、苏州公交949路バスに乗って、金阊实验小学站から五つ目のバス停、姑胥桥站まで行った。今回、蘇州訪問の主目的である胥門を訪れるためである。姑胥桥站から学士街を右折して200mほど南下すると、胥門路にぶつかる。

○その胥門路を100mも西へ行くと、西外城河で、立派な石橋が架かっていた。いわゆる太鼓橋で、歩行者専用の橋である。せっかくなら、普通に、道路を橋で繋いだ方が便利だと思う。

○しかし、ここには、どうしても、太鼓橋を架ける必要性があった。それは、この橋が有名な『姑蘇萬年橋』だと言うのだから。もっとも、現在の『姑蘇萬年橋』は復元された橋であることは言うまでもない。

○そのことについては、前回、詳しく触れた。

  ・テーマ「寧波・杭州・蘇州・台北旅」:ブログ『姑蘇萬年橋』

  姑蘇萬年橋 | 古代文化研究所 (ameblo.jp)

○当古代文化研究所は知らなかったが、『姑蘇萬年橋』は、日本でも有名な橋であって、インターネットで『姑蘇萬年橋』を検索すれば、多くのページがヒットする。何しろ、文化庁の文化遺産オンラインが載せているくらいだから。

○その『姑蘇萬年橋』が架かる胥門路の脇が公園となっていて、その名も、「伍子胥纪念园」と言う。そこに存在したのが『相土嘗水象天法地』の立派な石碑だった。

○『相土嘗水象天法地』をインターネット検索すると、次のページが先頭にヒットした。

      蘇州月城市及び御手洗にみられる封建時代末期の都市街路空間の特質

 蘇州城は中国江南第一の長い歴史と規模を誇る都市である。その位置は太湖平原の中心にあたり、中国古代南北経済上の命脈であった京杭大運河に隣接している。蘇州城の起源は春秋時代の紀元前514年に呉王闔間の功臣伍子胥が「相土嘗水象天法地」という思想の上で建築したものである。『呉越春秋』が伝える城市の規模は「周廻四十七里。陵門八、以象天八風 。水門八、以法地八聡。築小城、周十里、陵門三。不開東面者 、欲以絶越明也」とあり、東西3キロ、南北4キロ余りで 、八座の水陸門を設けていた。城内は東西3本 、南北4本の主要な河道(三横四直 )が通され、市内には内城にあたる子城が建設されていた。

  _pdf (jst.go.jp)

○この論文は、なかなか面白くて、興味深いものだった。水の都、蘇州の町形成に拘わる詳細な記述が、読んで楽しい。また、それに関連して、日本の瀬戸内海の御手洗集落を取り上げているのも、気になった。一考してみる価値がある。

○また、別に、次の案内もあった。

       蘇州博物館/Suzhou Museum

蘇州は、春秋時代の紀元前514年に、呉の都として創建された。その頃から、2500年もの間、基本的な都市構造は変わっていないという。

「相土嘗水、象店法地(土と水を踏まえ、風水に合わせて都をつくる)」という伍子胥の方針のもと、水路を碁盤の目状に開削して周囲に8つの城門(陸門と水門)をおき、外濠と内濠が巡らされた。

最盛期には82kmに及んだといわれる水路のほとんどは埋め立てられて、今日はこの平江路などで見ることができるのみである。

「上有天堂,下有蘇杭」 天上に天国があり、地上には蘇州、杭州がある、という意味。それだけ、蘇州は美しい街、肥沃で豊かな土地であると、昔から言われてきた。

  蘇州博物館/Suzhou Museum | 空間芸術研究所/vectorfield architects

○蘇州は、

  春秋時代の紀元前514年に、呉の都として創建された。

と言う、何とも古い町である。それを担ったのが伍子胥であり、その思想が『相土嘗水象天法地』だと言うわけである。実は、司馬遷の『伍子胥列伝第六』には、この文言は無い。「呉越春秋」にある言葉だと言う。

○たまたま、司馬遷の『伍子胥列伝第六』が気になって、蘇州を訪れた。こうやって、訪れてみると、いろいろと勉強させられることが多い。それは蘇州がそれだけの文化と歴史を有しているからに他ならない。気になることが多くて、ブログがなかなか先に進まなくて困っている。