三井楽(みみらくのしま) | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

○2022年7月8日から10日にかけて、五島列島福江島を訪問した。その際、福江島の北部に位置する三井楽町にある「道の駅:遣唐使ふるさと館」を、8日9日と、二回訪れた。この「道の駅:遣唐使ふるさと館」には、遣唐使や万葉集に関する案内や展示などがなされていた。

○遣唐使や万葉集を売りにする自治体も珍しい。そういう意味では、旧三井楽町は、何とも文化的な自治体である。今回は、その旧三井楽町について、考えてみたい。

○ちなみに、ウイキペディアフリー百科事典が案内する旧三井楽町は、次の通り。

      三井楽町

三井楽町(みいらくちょう)は長崎県南松浦郡にあった町。2004年8月1日に福江市南松浦郡富江町玉之浦町岐宿町奈留町と合併して五島市となった。

五島列島福江島の北西部に位置する。

  ・1889年明治22年)4月1日 - 町村制施行により南松浦郡三井楽村が成立する。・

  ・1940年(昭和15年)11月3日 - 町制施行し、三井楽町となる。

  ・2004年平成16年)8月1日 - 福江市南松浦郡富江町玉之浦町岐宿町奈留町

   合併し五島市となる。

  三井楽町 - Wikipedia

○ウイキペディアフリー百科事典には、別に、次の項目も存在する。

      三井楽

三井楽(みみらくのしま)は、長崎県五島市三井楽町の海岸域及び海域であり、日本国指定の名勝(2014年10月6日指定)である。また、日本遺産「国境の島 壱岐・対馬・五島~古代からの架け橋~」の構成資産でもあ

三井楽の地は、遣唐使が派遣された時代には日本の西のさいはてにあたり、東シナ海を横断する直前の最終寄港地として利用されてきた場所である。『肥前国風土記』の「値嘉鄕条」に記す「美彌良久之埼」は、現在の半島北部に位置する柏地区であるとされている。遣唐使一行の護衛の任にあたり、そのまま当地で亡くなった人々を祀る岩嶽神社をはじめ、遣唐使船に飲料用水を供給した井戸との伝承を持つ「ふぜん河」など、柏地区には遣唐使ゆかりの場所が残されている。入唐八家の一人として名高い天台僧智証大師・円珍も、6年に及んだ唐での求法(ぐほう)の後、天安2年(858)の帰国に際して肥前国松浦県旻美楽埼を経て大宰府の鴻臚館へと入ったことが知られる。

この地は古典文学にたびたび登場し、『万葉集』では山上憶良の作とされる筑前国志賀島白水郎の歌十首にも「美彌良久埼」として詠われた。藤原道綱母の『蜻蛉日記』では、亡母を偲んで詠んだ「ありとだに よそにてもみむ なにしおはば われにきかせよ みみらくのしま」の和歌とともに、「亡き人に逢える島」として紹介された。また、平安時代後期の歌人として著名な源俊頼も、『蜻蛉日記』と同様に亡き人に逢える島として和歌に詠んだ。『散木奇歌集』に収められた俊頼の和歌は後代の歌界に大きな影響を与え、12世紀末期の歌僧顕昭が編纂した和歌の注釈書である『袖中抄』(第三)において、三井楽は歌枕「みみらくのしま」として定着した。こうして三井楽(美禰良久)は、日本の西のさいはての地であるとともに、異国との境界にある島又は死者に逢える西方浄土の島として、広くその表象が後代へと受け継がれていった。

  三井楽 - Wikipedia

○また、文化庁の国指定文化財等データベースには、次のように載せる。

      三井楽(みみらくのしま)

五島列島の最南端に位置する福江島の北西端から東シナ海へと突き出た三井楽半島には、新生代第三紀の終末期頃に楯状(たてじょう)火山である京(きょう)ノ岳(たけ)(標高182m)から噴出した溶岩流が放射状に広がり、緩やかな傾斜面から成る円形の溶岩台地を形成している。特に、台地の縁辺部には、冬季の強い偏西風により樹木の叢生しない平明な草地が広がり、西方から打ち寄せる波打ち際に沿って大小多様な固い玄武岩質の溶岩礫が露出するなど、風光明媚な海浜及び海域の風致景観が展開する。黒褐色の溶岩礫から成る海岸裸地とヤブソテツ・ハマビワなどの潅木帯との間の草地では、かつて牛馬の放牧が行われ、牧場(まきば)としての管理が行われていたが、現在では海岸砂丘の周辺にハマゴウ・ハマボウなどの落葉低木及びハマヒルガオなどの海浜性草本などが散在している。
三井楽の地は、遣唐使が派遣された時代には日本の西のさいはてにあたり、東シナ海を横断する直前の最終寄港地として利用されてきた場所である。『肥前(ひぜんの)国(くに)風土記(ふどき)』の「値嘉(ちか)鄕(ごうの)条(じょう)」に記す「美彌(みみ)良(ら)久(く)之(の)埼(さき)」は、現在の半島北部に位置する柏地区であるとされている。遣唐使一行の護衛の任にあたり、そのまま当地で亡くなった人々を祀る岩(いわ)嶽(たけ)神社(じんじゃ)をはじめ、遣唐使船に飲料用水を供給した井戸との伝承を持つ「ふぜん河(がわ)」など、柏地区には遣唐使ゆかりの場所が残されている。入唐(にっとう)八家(はっか)の一人として名高い天台僧智証(ちしょう)大師(だいし)円珍(えんちん)(814~891)も、6年に及んだ唐での求法(ぐほう)の後、天安2年(858)の帰国に際して肥前国松浦県旻美(みみ)楽埼(らくのさき)を経て大宰府の鴻臚(こうろ)館(かん)へと入ったことが知られる。
この地は古典文学にたびたび登場し、『万葉集』では山上(やまのうえ)憶(のおく)良(ら)(660?~733?)の作とされる筑前国(ちくぜんのくに)志賀(しか)島(のしま)白水郎(はくすいろう(あま))の歌十首にも「美彌良久埼」として詠われた。藤原(ふじわらの)道(みち)綱(つなの)母(はは)(936?~995)の『蜻蛉(かげろう)日記(にっき)』では、亡母を偲んで詠んだ「ありとだに よそにてもみむ なにしおはば われにきかせよ みみらくのしま」の和歌とともに、「亡き人に逢える島」として紹介された。また、平安時代後期の歌人として著名な源(みなもとの)俊頼(としより)(1055~1129)も、『蜻蛉日記』と同様に亡き人に逢える島として和歌に詠んだ。『散(さん)木(ぼく)奇(き)歌(か)集(しゅう)』に収められた俊頼の和歌は後代の歌界に大きな影響を与え、12世紀末期の歌僧顕(けん)昭(しょう)(1130?~1209)が編纂した和歌の注釈書である『袖中抄(しゅうちゅうしょう)』(第三)において、三井楽は歌枕「みみらくのしま」として定着した。こうして三井楽(美禰良久)は、日本の西のさいはての地であるとともに、異国との境界にある島又は死者に逢える西方浄土の島として、広くその表象が後代へと受け継がれていった。(中略)
以上のように、三井楽半島の溶岩礫・草地から成る海浜とそれに連なる海域は、遣唐使が大陸を目指して東シナ海を横断する旅に船出した場所であり、亡き死者に相(あい)見(まみ)えることのできる西のさいはての地として歌枕にも定着した。その風致景観が持つ観賞上の価値及び学術上の価値は高く、名勝に指定し保護を図るものである。

  国指定文化財等データベース (bunka.go.jp)