蓮如 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

○浄土真宗を語る上で、避けて通ることのできない功労者が蓮如である。ある意味、宗祖の親鸞以上に、浄土真宗に貢献している人物ではないか。親鸞没後、150年にして登場したのが蓮如になる。その蓮如のお陰で、浄土真宗は一気に時代の寵児となる。現在の浄土真宗があるのも、ひとえに蓮如上人のお陰であることは、間違いない。

○2022年2月3日に、京都七条堀川通の西本願寺へお参りした。この日は、朝6時に京都駅八条口のホテルを出発し、下鴨神社から上賀茂神社、大徳寺、金閣寺、北野天満宮、大報恩寺、平野神社、若一神社、東寺と巡り、最後がこの西本願寺だった。当古代文化研究所の菩提寺は広済寺で、その本院が西本願寺になる。したがって、当古代文化研究所にとっては、西本願寺は馴染みの寺になる。

○インターネットで検索すると、様々なページがヒットする。その中で、もっともよく整理されているのは、次のページでは無いか。

      蓮如さんの生涯

1、苦難に満ちた若き日の蓮如上人

 蓮如上人の時代、京都東山の大谷にあった本願寺は、浄土真宗の中心寺院の影もないさびれた一貧寺で、天台宗の末寺とみなされているような状態でした。
 蓮如上人ご自身も、六歳の時に実の母君が本願寺を去られた後、貧窮を極めた生活を余儀なくされます。御苦難の日々の中で、若き蓮如上人は、宗祖親鸞聖人(しんらんしょうにん)、覚如(かくにょ)上人、存覚(ぞんかく)上人など善知識(ぜんぢしき)の教学を学びに学ばれ、ご著書を破れるまで読み込み、遂にはその中に自らの救いをえられるに至りました。

2、本願寺8世 御継職(ごけいしょく)

 蓮如上人は、本願寺8世を継がれて以後、一人でも多くの人に仏法の喜びを伝えるべく、精力的に、独自の布教活動を開始されます。統一性も独自性も失われていた浄土真宗の教義を、宗祖親鸞聖人の教えに立ち返り、御本尊の統一や、御名号の授与など、様々な改革を行われました。
 しかし、本願寺の興隆を危ぶんだ比叡山の山法師たちは本願寺のことを「无碍光衆(むげこうしゅう)」と非難し、大挙して押し寄せ、大谷の本願寺を破却しました(寛正(かんしょう)の法難(ほうなん))。
 蓮如上人は、山法師たちが堂内の破壊に狂奔している隙に、御本尊と親鸞聖人の御木像を持って何とか難を逃れました。

 その後、門徒たちにも助けられて、近江を転々としながら休む間もなく布教を続けました。しかし、同時に比叡山の影響が及ばない地での布教を模索され、かつて父君の存如(ぞんにょ)上人と訪れた北陸、中でも周りを日本海と北潟湖(きたがたこ)に囲まれた美しい場所で、船がいきかう吉崎へ向かうことを決意されたのです。

3、北陸・吉崎での蓮如上人

 文明3年(1471)、越前国(えちぜんのくに)吉崎の地で、「虎狼(ころう)のすみか」といわれる無住の御山(おやま)を、門徒たちは引き平らげ、木材を運び、御坊(ごぼう)(お寺・道場)を中心に寺内町を造り上げました。
 蓮如上人は、「南無阿弥陀仏」六字名号の授与、村々での法座「講」の奨励、「御文(おふみ)」による文書伝道、『正信偈(しょうしんげ)』『三帖和讃(さんじょうわさん)』の開版など、独自の布教活動を展開されました。

 中でも御文は、蓮如上人が村々で結成させた講で拝読され、これにより字が読めない庶民にまで浄土真宗のみ教えが広まりました。吉崎御坊にはまたたく間に多くの参詣者が訪れるようになり、周辺には多屋(たや)という宿坊が立ち並び、吉崎は一大宗教都市へと変貌しました。

4、再び畿内へ

 文明7年(1475)に吉崎を退却された後、文明11年(1479)には京都山科(やましな)の地に本願寺を再建され、明応5年(1496)には大坂御坊(石山御坊、石山本願寺)を造営されました。生涯をかけて、ただ一心に、一人でも多くの人に信心を獲らせるべく、畿内、北陸、東海道など全国で浄土真宗のみ教えを広められた蓮如上人は、明応8年(1499)3月25日、85歳でお亡くなりになりました。

  蓮如さんの生涯 -ご生涯と伝説- 御生誕600年記念 (honganjifoundation.org)

○少々長くなってしまったが、極めて懇切丁寧な案内となっている。ウイキペディアフリー百科事典が案内する蓮如は、次の通り。

      蓮如

蓮如(れんにょ)は、室町時代浄土真宗浄土真宗本願寺派第8世宗主・真宗大谷派第8代門首。大谷本願寺住職。は兼壽。院号は信證院。法印権大僧都。本願寺中興の祖。同宗旨では、蓮如上人と尊称される。1882年明治15年)に、明治天皇より慧燈大師諡号を追贈されている。しばしば本願寺蓮如と呼ばれる。父は第7世存如公家広橋兼郷猶子。第9世実如は5男。

親鸞の嫡流とはいえ蓮如が生まれた時の本願寺は、青蓮院の末寺に過ぎなかった。他宗や浄土真宗他派、特に佛光寺教団の興隆に対し、衰退の極みにあった。その本願寺を再興し、現在の本願寺教団(本願寺派大谷派)の礎を築いたことから、「本願寺中興の祖」と呼ばれる。

  蓮如 - Wikipedia

○蓮如と一休禅師が、極めて親しい関係があったことは、よく知られている。両者の年の差は二十一歳と、親子ほど離れている。まるで環境の異なる二人がどういうふうに結び付いたかが気になるところである。