若一神社:西大路八条 | 古代文化研究所

古代文化研究所

古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

○2022年2月3日、京都ぶらり旅で、平野神社へお参りした。この日は、朝6時に京都駅八条口のホテルを出て、レンタサイクルで鴨川を遡り、下鴨神社から上賀茂神社、大徳寺、金閣寺、北野天満宮、大報恩寺、平野神社と見学してきた。

○最初の予定では、この後、仁和寺、妙心寺へお参りしてから、東寺、西本願寺を参拝することにしていた。しかし、時間は十分あったが、体力的に無理だと判断した。北野天満宮で、もう十分疲れ果てていた。それで、止む無く、仁和寺、妙心寺は諦めて、そのまま平野神社から真っ直ぐ、東寺を目指すことにした。西大路通を下れば、良いだけである。

○平野神社からひたすら真っ直ぐ、西大路通を下っていたら、京都駅の手前、西大路八条の交叉点のところに、若一神社が見えた。こんなところに、若一神社が鎮座ましますことを知らなかった。ある意味、そういう偶然に、驚いた。

○と言うのも、若一神社については、2021年12月25日、27日に、書いたばかりであったからである。そのブログが、次のブログになる。

  ・テーマ「投馬国はどんな国家だったか」:ブログ『橋野:若一王子神社』

  橋野:若一王子神社 | 古代文化研究所 (ameblo.jp)

  ・テーマ「投馬国はどんな国家だったか」:ブログ『平季基墓』

  平季基墓 | 古代文化研究所 (ameblo.jp)

○平安時代中期、当時、日本最大と謳われた日向国の島津荘園を開墾したのが平季基である。日向国に於ける平季基の業績は大きい。その平季基の墓は、鹿児島県曽於市末吉町橋野に、ひっそりと存在する。そういう経緯を誰も評価しようとしない。

○その平季基が末吉町橋野に勧請した神社が『橋野:若一王子神社』である。もともとの若一王子神社が京都市に鎮座ましますことは、この時に知った。それで、機会があれば、京都の若一王子神社にお参りしたいと思っていた。

○2021年12月27日に思っていたのに、まさか、2022年2月3日に、その若一王子神社にお参りできるなど、想像だにしていなかった。わずか一か月余りで、念願が叶ったことになる。こんな偶然は無い。それもこれも若一王子の思し召しであることは間違いない。

○京都の若一神社は、西大路通に面して、鎮座ましました。それも京都駅近くの八条通との交叉点のところである。まさに、喧騒の只中に鎮座まします風情であった。インターネットで検索すると、若一神社のホームページに、次のように掲載されていた。

      若一神社

光仁天皇の御代、唐より威光上人来り、天王寺に住し、紀州熊野に詣でし折り、 迷い苦しむ人々を救わんと、御分霊若一王子の御神体を笈に負い旅立ち当地に来り、 森の中の古堂に一夜を明かし御神意に従い堂中に安置し奉斎鎮座し給う。
宝亀3年(772年)なり。
其の後、異変により、土中に入り給う。
平清盛公、六波羅在住の頃、此の地は浅水の森と称し風光明媚なる処、 承安年中此の地に別邸造営在住す。西八条御所と唱り。
仁安元年(1166年)8月、熊野詣で給う時、御告げあり、土中に隠れたる御神体、世に出し奉斎せよ。
平清盛公、帰京の後、公が邸内探したる所、東方築山より夜光を放つ。 清盛公歓喜して自ら三尺穿ち給へば土中より若一王子の御神体現わる。
社を造り鎮守し開運出世を祈り給へば、翌年仁安2年(1167年)2月10日太政大臣に任ぜられる。
故に、開運出世の神様と尊崇される所以也。
社前の楠の大樹は清盛公御手植と伝へられる御神木也。
当時、西八条殿は50余の邸があったと伝へられる。

  若一神社 (kyoto-jinjacho.or.jp)

○しかし、平安中期の平季基が、若一神社を日向国諸県郡末吉郷橋野へ、勧請していることは、間違いない。つまり、平季基にとって、若一神社は氏神であったことが判る。そういう歴史を京都の若一神社は、完全に見落としている。

○源氏の氏神が八幡神社であることは、誰もが承知している。しかし、平家の氏神が若一神社であることを、殆んどの人が理解していない。全く持って残念な話である。

○今回の「京都ぶらり旅」での大収穫の一つが、この若一神社参拝であった。若一神社は、実に境内の狭い神社であった。往時の若一神社が偲ばれてならない。若一神社境内には、次の歌碑があった。

  萌出づるも枯るるも同じ野辺の草 いづれか秋にあはで果つべき

○これが京都の文化と言うものであろう。意外なところに意外なものが出現する。それがまたなかなか風情があるし、歴史がある。