平野神社 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

○2022年2月3日、京都ぶらり旅で、平野神社へお参りした。平野神社へ参拝する前に、北野天満宮へお参りした。お参りした2月3日は、折しも節分会の日で、北野天満宮は大勢の参詣客で、多賑わいだった。それに対して、平野神社境内は、ほとんど人も見掛けず、お陰で、静かに参拝することができた。

○前回、ブログ『大報恩寺から平野神社へ』で書いたように、平野神社と北野天満宮は天神川を挟んで存在する。平野神社の住所が京都市北区平野宮本町なのに対し、北野天満宮の住所は京都市上京区御前通今出川上る馬喰町と、まるで違う。川一本がまさにその境界となっている。

○平野神社の創建は、延暦13年(794)平安遷都と同時とされるのに対し、北野天満宮の方は、平安時代中頃の天暦元年(947)とされるから、どちらも古い神社である。そういう古くて大きな神社が天神川を挟んで共存している。それが何とも不可思議でならない。

○そういう意味で、今回は、平野神社について、見てみたい。平野神社のホームページが案内する平野神社は、次の通り。

      平野神社について

  【御祭神四座】

    今木皇大神(いまきすめおおかみ) 源気新生、活力生成の神

    久度大神 (くどのおおかみ) 竈の神、生活安泰の神

    古開大神 (ふるあきのおおかみ) 邪気を振り開く平安の神

    比賣大神 (ひめのおおかみ) 生産力の神

  【沿革】

   奈良時代末期の延暦元年(782)『続日本紀』に「田村後宮の今木大神に従四位を

  授ける」とあり、平城宮の宮中(桓武天皇の父光仁天皇の御所)に祀られていました。

   ここ平野の地には、延暦13年(794)平安遷都と同時にご遷座されました。

   当初境内地は方八町余(平安尺で1500m四方)で、現在の京都御所とほぼ同じ

  大きさでしたが、時の変遷とともに現在の200m弱四方となりました。

  【御神階】

   平安時代になるとご祭神は急に位が上がり、貞観6年(864)年には今木皇大神が

  正一位(神様の位で最高位)の位を授けられました。その前年貞観5年(863)には

  久度大神・古開大神に正三位、比賣大神は従四位上に叙せられています。

  【社格と称号】

   『延喜式』(律令の施行細目、平安初期の延喜年間に着手され、延長5年(927)に

  完成)によれば、全国唯一の皇太子御親祭が定められた神社です。

   同式の「神祇官式・祝詞」には「皇大御神・皇大神」と称され、また「東宮坊式」には

  「神院」という宮中神と同様の扱いを受けております。『文徳天皇実録』仁寿元年

  (851)は勅使を「平野神宮」に遣わすとあります。全国でも数社に限られる

  「皇大御神・皇大神」「神宮」、宮中神である「神院」これらの尊称から宮中外の宮中神

  であったことが窺えます。また明治4年(1872)には官幣大社に列格しております。

  平野神社 HIRANO-JINJA Official web site - 平野神社について (hiranojinja.com)

○別に、ウイキペディアフリー百科事典が案内する平野神社は、次の通り。

      平野神社

平野神社(ひらのじんじゃ)は、京都市北区平野宮本町にある神社式内社名神大社)で、二十二社(上七社)の一社。旧社格官幣大社で、現在は神社本庁別表神社神紋は「」。

京都市北部、平安京大内裏(平安宮)から北方の平野の地に鎮座する神社である。平安京遷都頃まで創建が遡るとされる神社で、近年の研究によると、元々は桓武天皇生母の高野新笠の祖神(桓武天皇外戚神)として平城京に祀られた神祠であったが、それが平安京遷都に伴って大内裏近くに移し祀られたことに始まると推測されている。古代には皇太子守護の性格を持ち、平安時代には例祭「平野祭」において皇太子自らにより奉幣が行われた。また、多くの臣籍降下氏族から氏神として歴史的に崇敬された神社としても知られる。

  【祭神】

   現在の祭神は次の4柱。一番北の第一殿から順に1殿1柱ずつ祀られている。

    ・第一殿:今木皇大神(いまきのすめおおかみ、今木神) - 主神。

    ・第二殿:久度大神(くどのおおかみ、久度神)

    ・第三殿:古開大神(ふるあきのおおかみ、古開神)

    ・第四殿:比売大神(ひめのおおかみ、比売神/比咩神)

  平野神社 - Wikipedia

○つまり、平野神社の主祭神は、今木神だと言うことになる。平野神社のホームページに、【異説】項目があって、そこでは、次のように説いている。

  【異説】

  ・江戸期に、国学者の伴信友(ばんのぶとも)が諸作『蕃神考(ばんしんこう)』で、

  「今木神は百済王なり」との誤った説を、根拠となる資料を改竄して唱えました。

  今でもこの説を敷衍した説が時々出されますが、学問上では否定されています。

○この伴信友の、

  今木神は百済王なり

と言う説は、なかなか興味深い。ただ、日向国から眺める限り、「今木神は百済王なり」と言う説は、考えられない。それは今木神が今来神である以上、朝鮮半島からではなく、中国本土からのものであると考えられるからである。今来神と言う名前がそのことを証明してくれている。

○もっとも、日向国でも、今来神の正体を正確に掴むことは容易では無い。当古代文化研究所では、長年、今来神を追い続けているが、それでも、なかなかはっきりしない。

○現在、鹿児島県に給黎及び喜入地名が存在する。人の姓にも、給黎・今給黎・熊給黎などがある。こういうものは、全て、今木神に関するものである。詳しくは、次のブログを参照されたい。

  ・テーマ「吐火羅の旅」:ブログ『給黎(きいれ)』~2010年9月11日~

  給黎(きいれ) | 古代文化研究所 (ameblo.jp)