金閣寺 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

2022年2月3日に京都ぶらり旅で、金閣寺へ参詣した。京都で人気の観光名所と言えば、清水寺であり、金閣寺、渡月橋だと言う。そのいずれにも、これまで何回か訪れている。いまさら、金閣寺でも無いような気がするけれども、せっかく、近くまで来たのである。ちょっと足を伸ばして金閣寺へお参りした。

○さすが、人気の観光地である。このコロナ過であっても、多くの観光客が訪れていた。広い駐車場の向かい側に駐輪場の立て札があったので、そこへレンタサイクルを停めた。すぐ目の前が黒門である。

○正式名称は、北山鹿苑禅寺と言う。しかし、そんな難しい名を呼ぶ人は誰も居ない。みな、金閣寺で済ませている。したがって、表題も、金閣寺で済ませたい。インタネットで、検索すると、次のホームページがヒットした。

      金閣寺について

      足利義満が描いた極楽浄土の世界

   正式名称を鹿苑寺といい、相国寺の塔頭寺院の一つ。
   舎利殿「金閣」が特に有名なため一般的に金閣寺と呼ばれています。
   元は鎌倉時代の公卿、西園寺公経の別荘を室町幕府三代将軍の足利義満が

  譲り受け、山荘北山殿を造ったのが始まりとされています。金閣を中心とした庭園・

  建築は極楽浄土をこの世にあらわしたと言われ、有名な一休禅師の父である

  後小松天皇を招いたり、中国との貿易を盛んにして文化の発展に貢献した舞台で、

  この時代の文化を特に北山文化といいます。義満の死後、遺言によりお寺となり、

  夢窓国師を開山とし、義満の法号鹿苑院殿から二字をとって鹿苑寺と名づけられました。

  金閣寺について | 金閣寺 | 臨済宗相国寺派 (shokoku-ji.jp)

○ウイキペディアフリー百科事典が案内する金閣寺は、次の通り。

      鹿苑寺

鹿苑寺(ろくおんじ)は、京都市北区金閣寺町にある臨済宗相国寺派寺院大本山相国寺の境外塔頭山号は北山(ほくざん)。本尊聖観音。建物の内外に金箔が貼られた舎利殿から別名、金閣寺(きんかくじ)として知られている。正式には、北山鹿苑禅寺(ほくざんろくおんぜんじ)と号する。

寺名は開基(創設者)である室町幕府第3代将軍足利義満の法号・鹿苑院殿にちなむ。寺紋は五七桐。義満の北山山荘をその死後に寺としたものである。舎利殿は室町時代前期の北山文化を代表する建築であったが、1950年昭和25年)に放火により焼失し、1955年(昭和30年)に再建された。1994年平成6年)にユネスコ世界遺産文化遺産)「古都京都の文化財」の構成資産に登録される。金閣は、銀閣飛雲閣西本願寺境内)とあわせて京の三閣と呼ばれる。

  鹿苑寺 - Wikipedia

○金閣寺へは、黒門から入って、総門の前に、「世界遺産 金閣 鹿苑寺」の石碑が建っていて、その脇に、次の京都市の案内板が設置してあった。

      鹿苑寺(金閣寺)

   臨済宗相国寺派の山外塔頭寺院で平成六年(一九九四)に

  世界文化遺産に登録された。

   足利三代将軍義満が応永四年(一三九七)に営んだ山荘・

  北山殿を義満の没後、禅寺に改めたもので、義満の法号

  「鹿苑院殿」にちなんで鹿苑寺と名付けられた。お釈迦様の

  骨を祀った舎利殿が特に有名で、通称「金閣」と呼ばれている。

   金閣は、「法水院」と呼ばれる寝殿造の初層、「潮音洞」と

  呼ばれる武家造の二層、「究竟頂」と呼ばれる禅宗仏殿造の

  三層から成り、公卿文化と武家文化を折衷した建築様式は、

  北山文化の象徴とされる。二層、三層は漆塗の上に金箔が

  張られ、屋根の上には中国の伝説の鳥、鳳凰が輝いている。

   初層に義満公坐像と宝冠釈迦如来像が、二層に岩尾観音

  坐像と四天王像、三層に仏舎利がそれぞれ安置されている。

   昭和二十五年(一九五〇)に放火により焼失したが、昭和

  三十年(一九五五)に再建され、昭和六十二年(一九八七)

  に漆の塗替えや金箔の張替え修理が行われた。

   壮大な池泉回遊式庭園は、特別史跡及び特別名勝に指定

  されている。舎利殿の北側には義満ゆかりの銀河泉・巖下水・

  龍門滝があり、また萩と這い棚と南天の床柱で名高い茶室・

  夕佳亭もある。

                  京都市