ほととぎす声待つほどは片岡のもりのしづくに立ちやぬれまし | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

○2022年2月3日に、上賀茂神社へお参りした。上賀茂神社の楼門横に、小さいながら、派手な社が建っているのを見付けた。それが片山御子神社だった。片山御子神社は、賀茂別雷神社の第一摂社であると言う。その片山御子神社については、前回、詳しく触れたので、そちらを参照されたい。

  ・テーマ「京都ぶらり旅」:ブログ『片山御子神社』

  片山御子神社 | 古代文化研究所 (ameblo.jp)

○その中で、「紫式部と片岡社」と言う案内があって、興味深く読ませていただいた。和歌を勉強している者にとって、甚だ気になる文章でもあった。原文は、次の通り。

      紫式部と片岡社

   『源氏物語』の作者である紫式部が当神社に参拝祈願された際に左記の

  和歌を詠まれました。

      賀茂にまうでて侍りけるに、人の、ほととぎす鳴かなむと

      申しけるあけぼの、片岡の梢おかしく見え侍けれれば

          ほととぎす 声まつほどは 片岡の

              もりのしづくに 立ちやぬれまし

                       (『新古今和歌集』巻第三夏歌)

  【通釈】

   ホトトギス(将来の結婚相手)の声を待っている間は、

  この片岡社の梢の下に立って、朝露の雫に濡れていましょう。

    ※ホトトギスと共に片岡の社もまた素晴らしいという意味。

○もちろん、これはこれで丁寧な案内であることは間違いない。しかし、よくよく考えると、紫式部和歌には、もっと深い意があるのではないかと思えてならない。そのことについて、ここでは考えてみたい。

○「新古今和歌集」を見ると、紫式部作品は、全部で14首を数える。その中で、『ほととぎす声待つほどは』和歌は191番で、紫式部作歌では最初の和歌となっている。岩波日本文学古典大系本「新古今和歌集」では、次のようにある。

      かもにまうでで侍りけるに、人の、「郭公なかなん」と申しける

      明ぼの、かたをかのこずゑをかしく見え侍りければ、      紫式部

  郭公こゑ待つ程は かたをかの杜のしづくに立ちやぬれまし(191)

○ただ、「新古今和歌集」が192番の和歌として、次の作品を載せているのに、注目したい。

      かもにこもりたりける曉、時鳥のなきければ      辨乳母

  郭公み山出づなるはつ聲を いづれの宿の誰か聞くらん(192)

○さらに、岩波日本文学古典大系本「新古今和歌集」の192番和歌の頭注に、次のように載せていることが参考になる。

  「弁乳母集」。四月に郭公のなきければ。

  本歌「み山出でて夜半にや来つる郭公曉かけて声の聞ゆる」(拾遺101)。

○ちなみに、「み山出でて夜半にや来つる郭公」和歌は平兼盛の作品である。平兼盛は後撰集や拾遺集、後拾遺集などの勅撰和歌集の有力歌人で、三十六歌仙の一人。小倉百人一首では、

  忍ぶれど色にいでにけりわが恋は物や思ふと人のとふまで(拾遺622)

和歌で知られる。

○岩波日本文学古典大系本「新古今和歌集」では、辨乳母の「郭公み山出づなるはつ聲を」和歌の本歌を、「み山出でて夜半にや来つる郭公」和歌としているのが気になる。本歌取りはもっと後世の修辞であって、辨乳母の和歌修辞としてはそぐわない。

○ただ、平兼盛の「み山出でて夜半にや来つる郭公」和歌を受けて、辨乳母の「郭公み山出づなるはつ聲を」和歌が成立していることは、間違いない。当時の歌人はよく古歌を学習していたことが判る。それが後世に本歌取りの修辞となる。ただ、本歌取りの修辞には、いろいろな約束事がある。

○年代的には、最初が平兼盛の、

  み山出でて夜半にや来つる郭公曉かけて声の聞ゆる

和歌であって、次が紫式部の、

  郭公こゑ待つ程は かたをかの杜のしづくに立ちやぬれまし

であって、最後が辨乳母の、

  郭公み山出づなるはつ聲を いづれの宿の誰か聞くらん

であろうと思われる。

○京都で、山と言えば比叡山、川と言えば鴨川、が相場であることを見逃してはなるまい。わざわざ『み山』とあるのも、山が比叡山であることの証である。上賀茂神社の片岡社が、紫式部の『郭公こゑ待つ程は』和歌の舞台であることは、そういう意味で、重要である。

○紫式部の『郭公こゑ待つ程は』和歌には、次の題詞が存在する。

      かもにまうでで侍りけるに、人の、「郭公なかなん」と申しける

      明ぼの、かたをかのこずゑをかしく見え侍りければ、      紫式部

ここで言う、『人の、「郭公なかなん」と申しける明ぼの』が、平兼盛の和歌、『郭公曉かけて声の聞ゆる』であることを考えると、紫式部が、

  郭公こゑ待つ程は かたをかの杜のしづくに立ちやぬれまし(191)

と詠ずるのは、至極、もっともなことであると言うことが判る。

○さらに、辨乳母は、当然、この上賀茂神社の片岡社で、紫式部が『郭公こゑ待つ程は』和歌を詠じたことを知っていて、『いづれの宿の誰か聞くらん』と和歌を詠んでいることが判る、ここでは、『いづれの宿』とは上賀茂神社のことであり、『誰か』とは紫式部だとするしかない。

○そういう時空を超えた歌合せが、ここではなされている。平兼盛と紫式部と辨乳母と言う歌人が時空を超えてお互いを尊重し合って、こういう作品が生まれた。何とも凄い和歌であることに驚く。そういう舞台が上賀茂神社の片岡社である。