内之浦の彦火火出見尊 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

○これまで、ブログ『霧島市溝辺町麓の高屋山陵へ参詣』から始めて、『彦火火出見尊の登場』、『白尾國柱「麑藩名勝考」』、『麑藩名勝考:高屋山上陵』、『麑藩名勝考:正一位高屋大明神』、『麑藩名勝考:内浦三嶽』、『麑藩名勝考:救仁湊』と続けて来ている。

○現在、内之浦で最も斎き祀られているのは、何と言っても彦火火出見尊ではないか。その伝承は国見岳の高屋山上陵を始め、黒園岳や甫与志岳まで及んでいる。つまり、内之浦は彦火火出見尊一色と言って過言ではない。まるで、彦火瓊々杵尊の気配が感じられない。これは極めて不思議な話である。

○ある意味、彦火火出見尊は内之浦の男なのである。それも山幸なのだから、内之浦を取り巻く国見岳・黒園岳・甫与志岳に彦火火出見尊が斎き祀られているのは、当然と言えば、当然なのである。現在、内之浦と言えば、伊勢海老など、海の幸が有名だが、もともと内之浦の特徴はその豊富な山の幸にあった。当時の内之浦の海は大海で、人を寄せ付けるようなところでは無かったのである。

○肝属山地最高峰である甫与志岳(967m)から、内之浦の町の真ん中に伸びている尾根の突端が叶岳(187m)になる。この叶岳を境に、南が南方、北が北方となっている。川も北方を流れるのが広瀬川で、南方を流れるのが小田川である。平野は断然、北方が広い。ただ、町の中心と港は南方にある。

○こんな狭い平野で、南方も北方も無い。そう思われるかも知れないが、それはあくまで、現代人の感覚であるに過ぎない。つい150年ほど前までは、日本は六十余州に分かれていた。藩ならもっと数が増える。そういう中で国が成立し、人々は普通に暮らしていたのである。

○まして、古代の話なら、遥かにそのスケールは小さくなる。山一つ、川一つ、隔てれば、普通に別世界が広がっていた。そういう時代の話である。

○そういう意味では、彦火火出見尊は明らかに内之浦北方の男である。何故なら、高屋山上陵の存在する国見岳も、彦火火出見尊を斎き祀る高屋神社も、ともに北方に存在するからである。

○それに対して、内之浦の真ん中に突き出た叶岳が甫与志岳からの尾根筋に存在する意義は大きい。それに南方を流れる小田川も甫与志岳から流れ出ている川である。そういうふうに考えると、彦火瓊々杵尊は内之浦南方の男ではなかったかと思われてならない。

○実は甫与志岳や国見岳からは、きれいに天孫降臨の世界山、霧島山高千穂峰が見えるのである。それはそれは雄大な景色である。高屋山が国見岳と名を変えたのも、そういう景色を見ることができるからに他ならない。「万葉集」巻一に、舒明天皇の国見の歌がある。

      国見の歌

         舒明天皇

   大和には群山あれど   とりよろふ天の香具山   登り立ち国見をすれば

   国原は煙立ち立つ    海原はかまめ立ち立つ   うまし国そあきづ島

   大和の国は

○香具山からの国見もなかなかのものであるが、内之浦国見岳の眺望には、遥かに及ばない。国見岳山頂までは舗装道路が続いている。是非、お出掛けを。

○最後に。彦火火出見尊の御名について。「古事記」や「日本書紀」に拠れば、木花開耶姫が誓約をしたことで、燃え盛る火の中から誕生したから彦火火出見尊となったとされる。しかし、そんなはずはない。内之浦では、きれいに彦火火出見尊の御名を説明することができる。

○内之浦の東は海である。その内之浦湾の北側の岬は、火出崎と言う。ちょうど、国見岳からの尾根が東海に没するところである。どう考えても、彦火火出見尊の御名はここから出ていると言うしかない。彦火火出見尊の火は当て字に過ぎないのである。

○そういうことが普通に内之浦では見ることができるし、語ることができる。これが「古事記」や「日本書紀」が述べる日向神話の内実である。学問で知らないことは罪である。中央の学者先生は何もご存じ無くて、堂々と日向神話をお話しなさる。そんなものは日向神話でも何でも無い。

○日向神話を語るには、まず、日向神話の舞台である日向国を知ることだろう。天皇家の故郷が何処であるかも知らないで語られる日向神話は空しい。