真実の神代三山陵 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

○今年2021年正月8日に、久し振りに薩摩川内市の新田神社へお参りして来た。結果的に、これが今年の初詣となった。新田神社のすぐ裏手が可愛山陵であって、新田神社へ参拝すること自体が、そのまま可愛山陵へお参りすることになっている。

○もともと新田神社は八幡宮だったとされる。それがいつの間にか主祭神を天津日高彦火瓊瓊杵尊としている。それは大隅国一宮鹿児島神宮についても、同様のことが言えよう。鹿児島神宮はもともと大隅正八幡宮と称していた。それがいつの間にか彦火火出見尊を主祭神とするようになっている。

○明治七年(1874年)に、明治政府に拠って、次のように、現在の神代三山陵が定められている。

  初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県薩摩川内市の新田神社
  二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県霧島市溝辺町麓の高屋山陵
  三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵

○この裁定に、大きな影響を与えたのが薩摩国一宮を称していた新田神社であり、大隅国一宮とされる鹿児島神宮だったことは、間違いない。結果、とんでもないところに神代三山陵は比定されたことになる。それが現在に至っても、まるで顧みられていない。まことに残念な話である。

●第一、親・子・孫の三代の御陵が薩摩川内市、霧島市、鹿屋市に存在することなど、あり得ない。普通、親・子・孫の三代のお墓であれば、近在するのが常識である。余程の事情が無い限り、お墓がバラバラに存在することなど、考えられない。

●そういう意味では、寛政七年(1785年)刊行の白尾國柱著「麑藩名勝考」は、大いに参考になる。まず、何より、最も古い研究であることが大きい。「麑藩名勝考」で、白尾國柱は、神代三山陵の比定地を次のように案内している。

  初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県薩摩川内市の新田神社
  二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝付町内之浦国見山
  三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵

●大事なのは、白尾國柱が高屋山陵を内之浦国見山とし、吾平山陵を吾平町上名としていることである。内之浦国見山と吾平町上名は、たいへん近い。それなのに、可愛山陵を薩摩川内市の新田神社とするのには、相当無理がある。

●たぶん、白尾國柱はそのことに気付いていた。それで甫与志岳や叶岳、内之浦三岳参りなどを「麑藩名勝考」に記録として残している。ただ、薩摩藩士であった白尾國柱には、薩摩国一宮を称していた新田神社の意向を無視することはできなかったのである。そういう時代の壁があったことは容易に想像できる。何しろ、簡単に切り捨て御免や遠島がなされた時代の話だから。

◎当古代文化研究所では、長年、白尾國柱の神代三山陵の研究を継承して、神代三山陵の比定地を探索し続けて来た。その研究成果を、次のブログとしてまとめている。

  ・テーマ「神代三山陵の研究」:16個のブログ

  神代三山陵の研究|古代文化研究所 (ameblo.jp)

◎結果、真実の神代三山陵は、次のようになるしかない。

  初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県肝付町内之浦甫与志岳(叶岳)
  二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝付町内之浦国見山
  三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵

◎江戸時代の国学者、白尾國柱が、何故、あのように、執拗に神代三山陵に拘泥し、神代三山陵を追求し続けたか。そのことを理解しない限り、真実の神代三山陵は見えて来ない。それは神代三山陵の所在地がそのまま天皇家の故郷だと言うことを意味する。それで、白尾國柱は懸命に日向国中を探索し続けたわけである。

◎残念ながら、明治政府には、そういう高尚な理念が無かった。それが惜しまれてならない。神代三山陵が判れば、天皇家の故郷が見えて来る。そういうものを追い求めたのが江戸時代の国学者、白尾國柱だったのである。

◎彼の書いた「麑藩名勝考」は、名著である。後世の私たちに、実に多くのことを教えてくれる。白尾國柱に学んだことは多い。その一つが神代三山陵である。天皇家の故郷がここには存在する。それが大隅国肝属郡内之浦なのである。