古代日本:女帝の時代 | 古代文化研究所

古代文化研究所

古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

イメージ 1

○2016年9月25日(日)の朝日新聞文化欄に、「古代日本:女帝の時代」と言う興味深い記事が掲載された。あまりに素人くさい新聞記事に驚くとともに、これが現代日本の文化水準であることにがっかりさせられた。記事が無いと話ができないので、さきに新聞記事を紹介したい。

      古代日本:女帝の時代
      男系社会の行き詰まり打開
   かつての日本には、女性が政治の権力を握っていた「女帝」の時代があった。
  しかも、彼女たちは特定の時期にかたまって現れていたという。それは、どの
  ような時代だったのだろう。
 ●7、8世紀は「女帝の世紀」といわれる。この間、6人の女性天皇が登場したからだ。当時の天皇は政治を取り仕切る権力者。8世紀の「養老律令」にある継嗣令には女性天皇を「女帝」と記述している。
 6人の最初に登場した推古天皇は崇峻天皇が蘇我馬子に殺害されるという異常事態の直後に即位。その後の女帝たちの即位も、皇位継承に伴って起きる有力氏族の対立を和らげるためだったとされる。そのため、女帝の存在を皇位の「中継ぎ」とみる見方もある一方、数々の業績から政治力も経済力も備えていたとの見解もある。
 瀧浪貞子・京都女子大学名誉教授は「皇太子を決めないまま天皇が没するなどしたときに必要とされた女帝は男系社会での緩衝材で、もしいなければ混乱は増していた」と指摘する。「中国や朝鮮半島より早く誕生した日本の女帝は古代日本に根ざした存在。国史の編纂や遷都など文化的に果たした役割は大きい」
 平安時代になると、皇太子制度が整備されて次期天皇が明確化されたことにより女帝はみられなくなり、その後、政治の実権は武士に移っていった。
 ●3世紀には女王もいた。卑弥呼だ。だが、ほかに多くの女性首長がいたことも近年わかってきた。
 岡山大学の清家章教授は、墳丘墓に残された人骨や、副葬品の種類とその配置を調べることで被葬者が男性か女性かを判別した。弥生中期までは首長として葬られた女性はいなかったが、弥生後期には女性の被葬者が現れ始めた。古墳前期に入るとその傾向は強まり、全国の首長のうち3~5割が女性とみられるという。
 この時期は戦争や争乱を推察させる資料が比較的少ない。盛時、祭祀、軍事といった首長に求められる素養のうち、男性優位の軍事への期待が低くなったためと考えられる。「女性首長が一般的な存在になる時期に登場した卑弥呼とその後の台与は特異な存在ではなく、女王が受け入れられやすい素地があった」と清家教授は話す。
 ●清家教授は一方で、卑弥呼の優位性についても言及する。「本来であれば、父系社会の中国王朝に対して男王が外交にあたる必要があったし、海外諸国と衝突が起こることを考えて王には軍事的な能力も求められた。そうした不利益があっても女王に共立されたのは卑弥呼の政治や祭祀に関する能力が高かったからだろう」
 古墳中期になると、首長として葬られる女性が消え、男性だけになる。男王を基本としながら一時的に首長層の女性の地位が上がった時代があったという清家教授の研究成果。これは、邪馬台国がかつて男王を立て、卑弥呼を経て、再び男王を立てたとする魏志倭人伝の記述にも沿う。
 政治的背景や社会的背景と個人の能力が相備わって、女帝や女王は君臨しえたといえる。
                                 (河野通高)

●新聞記事内容について、誤解や問題があるといけないので、長くなったが全文を掲載する。付録として、【読む】コーナーと【訪ねる】コーナーが存在している。
【読む】
 瀧浪貞子さんの『女性天皇』(集英社新書)は、即位や譲位の経緯などから女性天皇6人の違いを浮き彫りにする。清家章さんの『卑弥呼と女性首長』(学生社)は、最新の考古学の視点から女性首長と女王の実像に迫る。
【訪ねる】
 「卑弥呼と出会う博物館」をコンセプトにする大阪府和泉市の府立弥生文化博物館は、弥生文化全般の資料を広く集めて、戦い、米づくり、まつりなどのテーマ別に展示している。開館は午前9時半~午後5時。月曜(祝日の場合は翌日)休館。

○瀧浪貞子著『女性天皇』(集英社新書)も清家章著『卑弥呼と女性首長』(学生社)も未見で物を言うのも気が引けるが、この新聞記事を読む限り、まるで考えられない論であることにただ驚くばかりである。

○この新聞記事は記名記事となっていて、記事を書いた記者は河野通高となっている。こういう記事を書くくらいであるから、少しは専門知識があるのだろう。それなら、大和国一宮が何処であるかくらいはご存じだろう。

○大和国一宮は大神神社であり、その御祭神は大物主大神で、出雲神である。大和国は日本国の始まりであり、大和朝廷の始まったところである。当然、大和国でもっとも齋き祀られている神は天皇家の神だと誰もが思っている。しかし、実際は天皇家の神が昔から祀られているところはほとんど無い。大和国を席巻している神は出雲神ばかりであることに驚く。

○つまり、大和国は出雲神の領知する国なのである。上記の朝日新聞記事に、
  古代日本:女帝の時代
と見出しが付いている。そして6人の女帝が存在したと解説する。おまけに、
  男系社会の行き詰まり打開
との見出しもあって、思わず笑ってしまった。そういう人には大和国を領知するのがどうして出雲神なのかを説明することは到底できまい。

◎この人は、まるで日本の古代史が理解できていない。第一に、「古代日本:女帝の時代」が6人の女帝と言う限定された時代であると考えること自体がおかしい。日本の古代が妻問婚であったことは古代史を少しでも齧った人であれば、誰でも知っていることである。

◎妻問婚がどういう社会で営まれているかを考えれば、この新聞記事のような発想はまず生まれない。「古事記」や「日本書紀」に記録されていることが日本の歴史であり、正しいと考えること自体がおかしいのである。

◎「古事記」や「日本書紀」は8世紀に書かれた史書であって、相当の作為が存在することも事実である。史書を読むと言う作業は、そういう文献批判も含める。「古事記」や「日本書紀」を無批判に受け入れるから、上記の新聞記事のような混乱が生じる。

◎日本の古代が母系社会であったことは日本の古代が妻問婚であったことからも明らかだろう。だから、日本の国に女帝が存在することは当たり前のことである。そういう母系社会を無理矢理、父系社会へと変容して記録しているのが「古事記」や「日本書紀」なのである。

●3世紀に、邪馬台国が日本の何処に存在したか。上記の記事から判断されるのは邪馬台国畿内説でしかない。新聞記事には大阪府立弥生文化博物館所蔵の女王卑弥呼の絵までご丁寧に紹介されている。

●つまり、この人は邪馬台国が畿内だと勘違いしていることが判る。何のことは無い。「魏志倭人伝」を読んだことの無い方だと言うしかない。真面目に「魏志倭人伝」を読んでいれば、こういう間違いは生じない。

●「魏志倭人伝」を誰が何時読んでも、畿内に邪馬台国が存在することはあり得ない。それは実に簡単に証明できる。「魏志倭人伝」を読むと、帯方郡から邪馬台国までは、
【帯方郡から邪馬台国への道のり】
  ・帯方郡→狗邪韓国     七千余里
  ・狗邪韓国→対馬国      千余里
  ・対馬国→壱岐国       千余里
  ・壱岐国→末廬国       千余里
  ・末廬国→伊都国       五百里
  ・伊都国→ 奴国        百里
  ・ 奴国→不弥国        百里
  ・不弥国→投馬国     水行二十日
  ・投馬国→邪馬台国    水行十日、陸行一月
とある。このうち、帯方郡から末廬国までで、ちょうど『萬余里』となる。

●別に「魏志倭人伝」には、次の記録もある。
  自郡至女王國萬二千餘里。
これに従えば、帯方郡から末廬国までで『萬余里』だから、残りは『二千餘里』と言うことになる。

●更に「魏志倭人伝」には、次の記録がある。
  參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。
つまり、魏国が認識する倭国の主要部の大きさが『周旋可五千餘里』だと言うのである。『周旋』は、「同じところを何度もクルクル回る」ことを意味する。倭国であるなら、それは『可五千餘里』の島と言うことだろう。つまり、倭国の主要部は『可五千餘里』の島だと言うことである。

●その基点もはっきりしている。それは末廬国である。何故なら、末廬国以降に「渡海」の文字が無いからである。つまり、末廬国以降の27国は陸続きであることが判る。これが「魏志倭人伝」の記録である。誰が何時読んでもこうなる。

◎結果、倭国の主要部である『周旋可五千餘里』の島は、九州島だと言うことが判る。判るように、畿内は邪馬台国と全然関係無いのである。だから、上記の新聞記事が何の根拠も無い話であることがはっきりする。

◎考古学者先生の妄想は留まるところを知らない。空想の上に更に空想を重ねるから、話としては断然面白い。しかし、それは歴史では無い。邪馬台国や卑弥呼を語るのに、「魏志倭人伝」に拠らないから、こういうことになる。考古学者先生は「魏志倭人伝」を読まないで話をなさる。それが空想であることをまるでご存じ無い。

◎それに、「魏志倭人伝」は片手間に読める代物では無い。まず素人の考古学者先生に「魏志倭人伝」は読めない。そう考えるのが常識である。だから、邪馬台国に素人の考古学者先生が発言すること自体がおかしいのである。邪馬台国や卑弥呼は考古学の範疇外なのである。

◎「魏志倭人伝」を真面目に読むと、「魏志倭人伝」の主題が見えてくる。「魏志倭人伝」の主題も案内しない読書は偽物である。「魏志倭人伝」の主題は何か。それは倭国三十国の案内である。「魏志倭人伝」を書いた陳寿は恐ろしい史家である。その陳寿は次のように倭国三十国を案内してみせる。これが陳寿の実力である。そういうことを考古学者先生は何もご存じ無い。
  【渡海三国】
    ・狗邪韓国・対馬国・壱岐国
  【北九州四国】
    ・末廬国・伊都国・奴国・不弥国
  【中九州二十国】
    ・斯馬国・巳百支国・伊邪国・都支国・邇奴国・好古都国・不呼国
    ・姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国・鬼国・為吾国・
    ・鬼奴国・邪馬国・躬臣国・巴利国・支惟国・烏奴国・(奴国)
  【南九州三国】
    ・投馬国・邪馬台国・狗奴国