○これまで、
・吉野山が可愛山陵であること
・高野山が高屋山陵であること
・熊野本宮が吾平山陵であること
と続けて来て、神代三山陵の先坣僑位が近畿地方に存在することを話して来た。この神代三山陵の先坣僑位の発見の意義は大きい。
○現在の神代三山陵の比定地は宮内庁に拠って、次のように規定されている。
初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県薩摩川内市の新田神社
二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県霧島市溝辺町麓の高屋山陵
三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵
○この裁定は明治七年(1874年)に明治政府に拠ってなされたままのものである。しかし、神代三山陵の第一人者である白尾國柱の研究を引き継ぐ限り、神代三山陵の比定地が上記のようであることは考えられない。結果、真実の神代三山陵は、次のように比定するしかない。
初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県肝属町内之浦甫与志岳(叶岳)
二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦国見山
三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵
○2007年頃、そういうことを考えていた。詳しくは、以下のブログを参照されたい。
・書庫「神代三山陵の研究」:16個のブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/144322.html?m=l&p=1
●白尾國柱の研究を引き継ぐことにより、真実の神代三山陵が発見できたと確信した。しかし、何しろ、話はそれこそ神代のことである。到底、そのことを証明できることは不可能だろうと思っていた。
●ところが妙なところから神代三山陵の先坣僑位が出現して驚いた。最初は「日本書紀」の持統天皇の吉野御幸が気になって始めたことであった。最終的にはそれが神代三山陵の先坣僑位に化けてしまった。瓢箪から駒では無いけれども、意外な結末に本人が驚いた次第である。
●このことについては、以下のブログで詳しく触れている。
・書庫「吉野山の正体」:40個のブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/389714.html?m=l&p=1
●その際、そのことを確認するために吉野山と高野山へ参詣した。その後、熊野から吉野山までも国道168号線を車で走った。その話は、以下に書いている。
・書庫「熊野から天川村・吉野・国中への旅」:17個のブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1177040.html?m=l&p=1
●最終的には、2011年4月に、吉野山から大峰山を経由して弥山までの奥駈道を3泊4日の山行で歩いて来た。結構凄まじい山旅だったが、楽しかった。
・書庫「奥駈道を歩く(吉野から弥山まで)」:33個のブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1201609.html?m=l&p=1
◎このように、丁寧に検証を済ませているつもりである。結果、真実の神代三山陵は、
初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県肝属町内之浦甫与志岳(叶岳)
二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦国見山
三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵
だとするしかないし、神代三山陵の先坣僑位が、
・可愛山陵=吉野山:奈良県吉野郡吉野町及び天川村
・高屋山陵=高野山:和歌山県伊都郡高野町高野山
・吾平山陵=熊野本宮:和歌山県田辺市本宮町本宮
であることも間違いない。
◎神代三山陵の先坣僑位を近畿地方に造営するなど、古代人の発想は凄まじい。それほど時代を宗教が支配していたことの証拠だろう。日向国には真実の神代三山陵が存在するけれども、それをそっくりそのまま移管したのが神代三山陵の先坣僑位であることに驚く。
◎逆に神代三山陵の先坣僑位の発見に拠って、真実の神代三山陵の存在が確認されることも事実である。神代三山陵の先坣僑位と、真実の神代三山陵が相似形で無くては、話にもならない。そういう意味で、神代三山陵の先坣僑位の発見の意義は大きい。
◎併せて、神代三山陵の先坣僑位と真実の神代三山陵とを比較すると、その違いもまた極めて面白い。神代三山陵の先坣僑位と真実の神代三山陵とは、全くの相似形でありながら、まるで違うのである。そういうところに古代人と現代人との意識の差を感じる。
◎どういうことかと言うと、真実の神代三山陵は結構、慎ましい存在でしかない。それに対して、神代三山陵の先坣僑位は何とも凄まじい。どれくらい凄まじいかと言うことは、神代三山陵の先坣僑位である、
・可愛山陵=吉野山:奈良県吉野郡吉野町及び天川村
・高屋山陵=高野山:和歌山県伊都郡高野町高野山
・吾平山陵=熊野本宮:和歌山県田辺市本宮町本宮
のいずれもが、別々に宗教的聖地として存在し得るほど有名なところとなっているところからも明らかだろう。
◎それが2004年に『紀伊山地の霊場と参詣道』として、世界文化遺産に登録された。なかなか歴史は面白い。『紀伊山地の霊場と参詣道』はもともと神代三山陵の先坣僑位として、一つの概念であった。それが現代に世界文化違算として、それこそ『よみがえった』のである。おまけにそのことを吉野山も高野山も熊野本宮も全部が喪失してしまっているのだから。
◎これが文化の力であり、歴史の恐ろしさなのだろう。見えないところで失われたものがしっかり今でも密接に繋がっているのである。それに対して、真実の神代三山陵である、
初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県肝属町内之浦甫与志岳(叶岳)
二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦国見山
三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵
が依然として何の評価も受けていないのが何とも寂しい。神代三山陵の先坣僑位ですら世界文化遺産なのである。それなら、真実の神代三山陵の評価がそれ以上であることは当然だろう。
◎そういう意味で、江戸時代の国学者、白尾國柱の研究は凄い。彼の神代三山陵研究の成果が寛政七年(1785年)刊行の「麑藩名勝考」となっている。「麑藩名勝考」は名著である。今でも私たちに多くのことを教えてくれる。その本文が何とも名文であることも楽しい。そういう名著を読む人が居ないことが何とも寂しい。在る意味、日向国を知ろうと思えば、「麑藩名勝考」は必見の書である。
◎本ブログに於ける真実の神代三山陵の発見や、神代三山陵の先坣僑位の発見も、契機は白尾國柱の「麑藩名勝考」にある。それほど、白尾國柱の「麑藩名勝考」の教えてくれることは多い。
◎今回の標題を『大和三山と神代三山陵の先坣僑位』としたのには、もちろん理由がある。それは日向国人が近畿地方に移住し造営したものが大和三山と神代三山陵の先坣僑位だからである。そして、大和三山と神代三山陵の先坣僑位とでは、その扱いがまるで違うことに驚く。
◎先に述べたように、神代三山陵の先坣僑位は真実の神代三山陵に比べて、遙かに拡大誇張されて出現しているのに対し、大和三山は真実の大和三山である邪馬台国三山に比べて、何とも矮小化されていることに驚く。具体的には、邪馬台国三山、
・うねびやま=霧島山(1700叩
・あめのかぐやま=桜島山(1117叩
・みみなしやま=開聞岳(924叩
が、大和三山、
・畝傍山(199.2m)
・香具山(152.4m)
・耳成山(139.7m)
となっているのだから。
◎それに対して、真実の神代三山陵、
初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県肝属町内之浦甫与志岳(叶岳)
二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦国見山
三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵
が、神代三山陵の先坣僑位として、
・可愛山陵=吉野山:奈良県吉野郡吉野町及び天川村
・高屋山陵=高野山:和歌山県伊都郡高野町高野山
・吾平山陵=熊野本宮:和歌山県田辺市本宮町本宮
となっていることは、もう驚き呆れるしかない。
◎私たちは、それが古代人の意図であり、意識だと考えざるを得ない。邪馬台国三山を見たことも無いし、大和三山も知らない方には、なかなか理解していただけないだろうが。同じように、真実の神代三山陵も神代三山陵の先坣僑位もご存じ無い方に、こういう話をしても仕方の無いことである。
◎これが日向国の万葉学の研究成果である。日向国では宗教も歴史も文学も同じである。宗教も歴史も文学も理解して、始めて宗教を語り、歴史を語り、文学を語ることができる。実は、そう言うことも白尾國柱や伊地知季安に教わったことである。日向国の先人は何とも凄い。