法燈円明国師:心地覚心 | 古代文化研究所

古代文化研究所

古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

イメージ 1

○径山寺に参禅した日本人僧の三人目として、法燈円明国師、心地覚心を案内したい。ウィキペディアフリー百科事典が案内する心地覚心は、次の通り。

      心地覚心
   心地 覚心(しんち かくしん、承元元年(1207年) - 永仁6年10月13日(1298年11月18日))は、
  鎌倉時代の臨済宗の僧。信濃国(現在の長野県松本市神林)生まれ。姓は恒氏。無本と号した。京都
  宇多野に位置する臨済宗建仁寺派の妙光寺を開創した。
  【生涯】
   1221年(承久3年)神林の神宮院に入り 29歳の時に奈良東大寺にて受戒、高野山で伝法院の覚仏に
  従い真言密教を学ぶ。また金剛三昧院の退耕行勇に師事し密教禅を修めた。この時、源実朝の霊を弔
  う為に高野山に来た、葛山景倫(後の願性)に出会う。師に随い鎌倉の寿服寺にも赴いた。山城(京
  都)深草の極楽寺に道元を訪ね菩薩戒を受け、上野世良田の長楽寺開山の栄朝、甲斐の心行寺の生
  蓮、京都勝林寺の真観らに学んだ。
   1249年(建長元年)に入宋した。杭州湾口にある普蛇山に着き、中国5大禅寺のひとつである径山
  寺(興聖万寿禅寺)に上る。翌年、阿育王山に掛塔し、三年ほどその地で修行する。その後、天台
  山、大梅山に上る。杭州の霊洞山護国仁王寺の無門慧開(1183年-1260年)に参じ、その法を嗣ぎ125
  4年(建長6年)に帰国した。
   帰国後、高野山の金剛三昧院に戻り、師の著作である『無門関』を請来した。
   1258年(正嘉2年)願性(葛山五郎景倫。願生、願成とも。)の求めに応じて西方寺(後の興国
  寺)の開山となり、紀伊の由良に居を定めた。
   亀山上皇(1248年 - 1305年)の帰依を受け、新建の南禅寺の開山となることを求められたが、断
  ったという。亀山上皇、後醍醐天皇より法燈禅師、法燈円明国師と諡された。
   瑩山紹瑾(1268年 - 1325年)ら、多くの曹洞宗の僧らと交渉をもったため、その密教化に影響を
  与えたとされる。
   また、後世尺八を愛好したとして、普化宗の祖ともされる。
   心地覚心が中国からもたらしたといわれる金山寺味噌は、径山寺(きんざんじ)の味噌の製法を模
  したものと言われている。

○上記、記事中に、
  ・杭州湾口にある普蛇山に着き、中国5大禅寺のひとつである径山寺(興聖万寿禅寺)に上る。
とあるけれども、『普蛇山』は、誤字にしてはお粗末に過ぎる。『普陀山』が正しい。また、『中国5大禅寺』と言う表現はしない。『五山』と称するのが普通である。

○普陀山自体が観音信仰の聖地で、中国四大仏教名山(仏教の聖地:五台山、九華山、峨眉山、普陀山)の一つに数え上げられる。だから、心地覚心が普陀山に着いたのではなく、心地覚心は参詣の為に普陀山に赴いたと考える方が自然である。

○日本では、天台宗の関係から天台山が有名であるが、中国では圧倒的に天台山より普陀山の方が有名であるし、参詣客も多い。

○別に、「元亨釈書」:巻第六・明戒六にも、『鷲峯覚心』として、心地覚心を載せる。ただ、心地覚心が径山寺で得たものはそれほど多くはなかったらしい。その後、心地覚心は天台山、阿育王寺、大梅山などを遍歴し、最後に杭州の霊洞山護国仁王寺で師となる無門慧開に出会っている。

○2013年3月21日に径山寺に参詣した。その前日、20日には三天竺に参拝したが、その時、游4綫の公共バスに、省府路バス停から中天竺バス停まで乗った。途中、西湖の北、曙光路を通ったが、その曙光路の黄龍洞あたりに存在したのが霊洞山護国仁王寺である。現在は廃寺となっていて、何も残っていないらしい。

○心地覚心は建長元年(1249)に入宋し、建長6年(1254)に日本へ帰国している。心地覚心が杭州の霊洞山護国仁王寺で出会い、師事したのが無門慧開である。

○心地覚心が無門慧開に出会わなかったら、「無門関」が、これほど日本で読まれることも無かったかも知れない。

○心地覚心が日本に将来したものが「無門関」であり、径山寺味噌であり、尺八であると言うのも、何か世俗じみていて、楽しい。