円通大応国師:南浦紹明 | 古代文化研究所

古代文化研究所

古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

イメージ 1

○径山寺に参禅した日本人僧として、中国の検索エンジン百度の「百度百科」が載せているのは、俊芿、圓爾辯圓、無本覚心、南浦紹明の四名である。それぞれの入宋の時期は、次の通り。
  ・俊芿=慶元5年(1199年)
  ・圓爾辯圓=嘉禎元年(1235年)
  ・無本覚心=建長元年(1249年)
  ・南浦紹明=正元元年(1259年)

○ただ、中国の検索エンジン百度の「百度百科」は、
  ・日本名僧俊芿、圆尔辨圆、无本觉心、南浦昭明等先后来寺学禅,一住数年。
と記録していて、「南浦紹明」の名を「南浦昭明」と誤っている。早急に訂正されることを願いたい。

○ウィキペディアフリー百科事典が案内する南浦紹明は、次の通り。

      南浦紹明
   南浦 紹明(なんぽ しょうみょう、嘉禎元年(1235年) - 延慶元年12月29日(1309年2月9日))
  は、鎌倉時代の臨済宗の僧。出自については不詳であるが、駿河国安倍郡の出身。諱は紹明(「しょ
  うみょう」とも「じょうみん」ともよむ)、道号は南浦。勅諡号は円通大応国師。
  【生涯】
   幼くして故郷駿河国の建穂寺に学び、1249年(建長元年)鎌倉建長寺の蘭渓道隆に参禅した。1259
  年(正元元年)宋に渡って、虚堂智愚の法を継いだ。1267年(文永4年)日本に帰国して建長寺に戻
  り、その後は1270年(文永7年)筑前国興徳寺、1272年(文永9年)、博多崇福寺(そうふくじ)の住
  持をつとめた。1304年(嘉元2年)後宇多上皇の招きにより上洛し万寿寺に入る。1307年(徳治2年)
  鎌倉に戻り建長寺の住持となったが、その翌年に75歳で没した。門下には宗峰妙超(大燈国師)、恭
  翁運良などがいる。
   没後の延慶2年(1309年)、後宇多上皇から「円通大応」の国師号が贈られたが、これは日本にお
  ける禅僧に対する国師号の最初である。南浦紹明(大応国師)から宗峰妙超(大灯国師)を経て関山
  慧玄へ続く法系を「応灯関」といい、現在、日本臨済宗はみなこの法系に属する。

○聖一国師、円爾(1202~1280)と、円通大応国師、南浦紹明(1235~1309)とは、ともに駿河国安倍郡の出で、時代も近しい。ただ、その生涯はまるで違ったものとなっている。

○円爾は宋から帰国の後、博多に承天寺を開山、のち上洛して東福寺を開山。また、宮中にて禅を講じ、東大寺大勧進職に就くなどし、晩年は故郷の駿河国に帰り、蕨野に医王山回春院を開ている。

○それに対して、南浦紹明は入宋前から、鎌倉建長寺の蘭渓道隆に師事している。当時、鎌倉にはすでに宋からの渡来僧が数多く訪れていて、建長寺では普通に中国語が飛び交っていたと言う。

○もちろん、そのことには、中国側の時代背景があることも忘れてはなるまい。宋王朝の滅亡は正式には1279年とされるけれども、1276年には都臨安(杭州)が陥落し、実質宋は滅んでいる。そういう時代にあって、多くの僧侶が難民として日本に帰化している。

○圓爾辯圓が入宋した嘉禎元年(1235年)には、まだ南宋にはそれほどの危機感があったわけではない。しかし、南浦紹明が入宋した正元元年(1259年)は、南宋は国家存亡の危機に直面していたわけである。圓爾辯圓と南浦紹明との時代差は、わずか30年ほどではあるが、時代は急激な変化を迎えていたことが判る。

○日宋貿易を盛んに行ったのは、平忠盛(1096~1153)で、その後を継いだのが平清盛(1118~1181)である。その最後の時代が、ちょうど南浦紹明の時代であった。この後、中国は元王朝となり、日本と敵対関係となり、文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)が起こる。