泉湧寺不可棄法師俊芿 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○中国の検索エンジン百度の「百度百科」が、径山寺の項目で案内するのに、径山寺に参禅した日本人僧の名を次のように載せている。
  ・日本名僧俊芿、圆尔辨圆、无本觉心、南浦紹明等先后来寺学禅,一住数年。

○前に、聖一国師・円爾を案内したが、円爾が径山寺を訪れたのは、嘉禎元年(1235年)のことである。その円爾より36年も前、慶元5年(1199年)10月14日に、径山寺を訪れたのが京兆泉湧寺沙門俊芿である。

○本ブログでは、すでに俊芿については5年前に案内済みである。

  ・書庫「伊地知季安「漢学起源」を読む」:ブログ『俊芿-日本に朱子学をもたらした男ー』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/13299149.html

○朱熹の生没年は、建炎4年(1130)~慶元6年(1200)であるから、俊芿は朱熹の生存中に日本に朱子学をもたらしたことになる。上記のブログ『俊芿-日本に朱子学をもたらした男ー』を読み返してみたが、何とも俊芿についての知識がないのに驚く。この5年間に、俊芿については相当勉強した。

○手元に、
  ・「大日本佛教全書」:遊方傳叢書第三・『泉湧寺不可棄法師傳』
  ・「大日本佛教全書」:『元亨釈書』:巻第十三・明戒六
  ・「大日本佛教全書」:『本朝高僧傳』:巻第五十八・浄律五之二・『京兆泉湧寺沙門俊芿傳』
を置いて読んでいる。『泉湧寺不可棄法師傳』は寛元二年(1244年)、『元亨釈書』は元亨二年(1322年)、『本朝高僧傳』は元禄15年(1702年)に成立している。

○伊地知季安(1782~1867)も、多分、こうやって俊芿について調べたのであろう。現代はインターネットで検索して、廉価で「泉湧寺不可棄法師傳」「元亨釈書」「本朝高僧傳」を購入できるし、宅配で自宅まで送ってくれる。甚だ便利な世の中である。伊地知季安の時代は大変だったに違いない。

○もっとも、現代では、なかなか「泉湧寺不可棄法師傳」「元亨釈書」「本朝高僧傳」を読む人も少ないのではないか。読むと結構面白いものがある。

○ちなみに、ウィキペディアフリー百科事典が案内する俊芿は、次の通り。

      俊じょう
   俊芿(しゅんじょう、仁安元年8月10日(1166年9月6日)- 嘉禄3年閏3月8日(1227年4月25日))は、
  鎌倉時代前期の僧。出自については不詳である。肥後国飽田郡[1]の出身。字は我禅。号は不可棄。
  勅号は大興正法国師。一般には、月輪大師(がちりんだいし)と呼ばれることが多い。真言宗泉涌寺
  派の宗祖とされる。
  【業績】
   1183年(寿永3年)18歳の時に出家剃髪し、翌1184年(元暦元年)大宰府観世音寺で具足戒を受けた。
  戒律の重要性を痛感し1199年(正治元年)中国(宋)に渡った。径山の蒙庵元総に禅を、四明山の如
  庵了宏に律を、北峰宗印に天台教学を学んで、12年後の1211年(建暦元年)日本に帰国して北京律
  (ほっきょうりつ)をおこした。俊芿に帰依した宇都宮信房に仙遊寺を寄進され、寺号を泉涌寺と改
  めて再興するための勧進を行った。後鳥羽上皇をはじめ天皇・公家・武家など多くの信者を得て、そ
  こから喜捨を集め、堂舎を整備して御願寺となり、以後、泉涌寺は律・密・禅・浄土の四宗兼学の道
  場として栄えることとなった。
  【書】
   能書としても知られ、その書名は宋朝においても高かったといわれる。日本に宋風の新書風をもた
  らした功は大であり、筆跡としては、『泉涌寺勧縁疏』(せんゆうじかんえんそ)と『附法状』がと
  もに国宝として泉涌寺に現存する。
  【泉涌寺勧縁疏】
   仙遊寺を泉涌寺と改めた翌年の1219年(承久元年)10月、54歳のときに書した勧縁疏である。文章・
  書風ともに優れており、風格・骨法は宋代に流行した黄山谷風の行書体である。5紙1巻よりなり、外
  題に「造泉涌寺勧進疏」とある。大きさは、40.8cm×29.3cm。

○ウィキペディアフリー百科事典が案内する俊芿は、書家としての業績が多い。「泉湧寺不可棄法師傳」「元亨釈書」「本朝高僧傳」の俊芿は、まるで別の顔を見せる。

○前に紹介した円爾は駿河国安倍郡栃沢の人であったが、俊芿は肥後国飽田郡味子庄の人である。熊本県玉名市に、小岱山正法寺跡が存在する。小岱山正法寺は俊芿が29歳の時、開山した寺である。本ブログでは、次のようにすでに案内している。

  ・書庫「伊地知季安「漢学起源」を読む」:ブログ『肥後国小岱山』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/35120287.html

○俊芿は慶元5年(1199年)10月14日に径山寺を訪れ、円爾は嘉禎元年(1235年)に径山寺を訪れている。その二人が径山寺を訪れた歳がともに34歳だと言うのも、何か因縁めいている。