無準禅師 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○径山寺が殷賑を極めたのは、径山万寿寺の第34世住持、無準禅師の頃ではなかったか。ウィキペディアフリー百科事典が案内する無準禅師は、次の通り。

      無準師範
   無準 師範(ぶじゅん しばん、淳熙4年(1177年) - 淳祐9年(1249年))は、中国・南宋時代の
  禅僧。名は師範、俗姓は雍。四川省綿州梓潼県の人。宋代禅林中の巨匠で理宗から仏鑑禅師を諡された。
  【業績】
   破庵祖先の法嗣、門下に 兀庵普寧・西巌了恵・別山祖智・断橋妙倫(以上、四哲と称す)・雪巌
  祖欽・無学祖元などがおり、日本僧では円爾がいる。中国五山の第一たる径山万寿寺の第34世に住し、
  円爾をはじめとして日本から無準に参じた僧は多い。日本禅林との関係は最も深く、最も強い影響を
  与えている。
   無準は書法に長じ、多くの墨跡の名品を日本に伝えており、その書は張即之風で雄渾な大字で知ら
  れる。また『与円爾尺牘』の細字には別趣の味わいがあり、いずれも極めて格調が高い。無準は張即
  之と交渉をもったため、その弟子たちは好んで張即之の書を学んだ。
   また無準は絵画にも非常に優れていたらしく、その弟子の牧谿は禅林が生んだ最大の画家で、その
  作品は日本にもたらされている。無準の著として『仏鑑禅師語録』が知られる。
  【墨跡】
  与円爾尺牘:
   『与円爾尺牘』(えんににあたう せきとく)は、無準が円爾に書いた謝礼の尺牘。円爾が帰朝し
  た翌年の淳祐2年/仁治3年(1242年)の夏、径山の寺塔が火事になり、円爾はその復興のために博多
  から板1,000枚を径山に送った。それに対する無準の謝礼が本状である。そのため俗に板渡しの墨跡
  と呼ばれ珍重されている。東京国立博物館蔵。国宝(指定名称は無準師範墨蹟(尺牘))。
  与円爾印可状:
   『与円爾印可状』(えんににあたう いんかじょう)は、嘉熙元年(1237年)10月、無準が円爾に
  書き与えた印可状。「道無南北」の文からはじまるこの墨跡は、円爾が径山に上った翌年に与えられた。
  絹本、53.9cm×102.7cm。東福寺蔵。国宝(指定名称は無準師範墨蹟(円爾印可状 丁酉歳十月))。

○中国の検索エンジン百度の「百度百科」が載せる無準禅師は、次の通り。

      无准师范
  【百科名片】
   无准师范(1179—1249),名师范,号无准,俗姓雍氏,四川梓潼(绵州梓潼县治)人。年九岁就阴
  平道钦出家,绍熙五年(1194)受具足界,庆元元年(1196)于成都正法寺坐夏。年二十投育王山秀岩
  师瑞,时育王山有佛照德光(宋代临济宗大慧派僧人---作者注)居东庵,空叟宗印分坐,法席人物之
  盛,为东南第一。被誉为“南宋佛教界泰斗”,在茶文化传播日本过程中发挥了作用。
  【人物生平】
   《禅宗词典》有如下记载: 师贫,无剃发之资,时人常以“乌头子”称之。后至杭州灵隐寺,谒松
  原崇岳(宋代临济宗杨歧派僧人---作者注),往来南山,栖止六年。又闻破庵祖先(宋代临济宗杨歧
  派僧人---作者注)住苏州西华秀峰,往依之。不久,至常州(今属江苏)华藏寺师事宗演,居三年,
  复还灵隐。侍郎张 兹新创建广惠寺,请破庵祖先住持,师范亦往侍三年,又随其登径山。破庵祖先将
  寂之时,以其师咸杰(宋代临济宗杨歧派僧人---作者注)之法衣顶相付之。绍定五年(1232),奉敕
  住径山,次年入慈明殿说法,宋理宗深为感动,赐“佛鉴禅师”之号,且赐银绢,作为径山寺的修缮之
  资。淳佑九年(1249)三月十五日,书遗表十余种,三天后示寂。有《无准师范禅师语录》五卷、《无
  准和尚奏对语录》一卷行世。(《续传灯录》卷三五、《大明高僧传》卷八)
  【历史评价】
   无准师范被誉为“南宋佛教界的泰斗”,具有多方面的历史贡献
  [对传播禅宗的贡献]
   在无准师范的影响下,仁治二年(1241),其弟子圆尔辩圆将《禅院清规》带回日本。弘安三年(12
  80)六月一日,以此为蓝本,制订了《东福寺清规》。
  [对书画的贡献]
   圆尔辩圆回国时曾带回一些无准师范的墨迹,后来他在博多开创承天禅寺时,无准方面又寄赠禅院额
  字等,因此,有不少无准的手迹留存在日本。特别是其声名广为传播后,入宋僧更是想方设法搜罗其墨
  迹。据《选佛场额字考》一书所载,仅现存日本的无准手迹就有“自赞顶相”、“印可状”、“山门疏”、
  “选佛场”、“潮音堂”、“云归”等17种。无准众多的墨迹中,最为茶人珍藏的,是《板渡》。《云
  州藏帐》是一部记录最受茶家尊重的松平不昧公茶道具的书籍,其中的宝物部(三)就曾将无准的这一
  墨迹列入,文化八年(1811)九月附记称“右九品者,天下名物也,永永大切可致者也(此为日文式汉
  文,意为“永远珍贵”)。该墨迹现存于日本国立博物馆,昭和二十二年(1947)十二月被指定为国宝。
  [对日本茶道的贡献]
   日僧不但学习禅法,而且还将宋代禅文化实践于生活,可以说是对宋文化的全面移植。他们在输入茶
  典的同时,开始尝试碾茶的制作方法。圆尔回国时,曾把径山带去的茶种播种在静冈县,后又仿照径山
  碾茶制作方法,生产出日本的“碾茶”。据日本的《名物类聚考》载,日本的茶道也是700年前的入宋
  僧南浦绍明从径山传过去的,径山“茶宴”是日本茶道之源。

○他に、中国の検索エンジン百度の「百度百科」が載せる無準禅師の項目では『事件年表』を載せるが、それには中国の元号と日本の元号を併記している。それほど、無準禅師が日本に与えた影響は大きい。

○また、上記『歴史評介』で案内するのも、
  ・対伝搬禅宗的貢献
  ・対書画的貢献
  ・対日本茶道的貢献
の三項目となっていて、その全てが日本と関連するものばかりである。

○中国では、現在、ほとんどの寺が禅寺として存在する。それがまた、日本人には奇異なものとして映る。天台山も普陀山も全て禅寺として存在する。

○また、中国で禅宗が盛んになったのは中唐(766~835)の頃とされる。つまり、最澄や空海が中国を訪れた804年には、すでに中国では禅宗が主流になりつつあった時代である。何故か、最澄や空海はそういう禅宗に見向きもしない。

○中国の禅僧、義空が日本を訪れたのは承和14年(847年)とされる。その時、日本最初の禅寺、檀林寺が創建されている。しかし、日本では何故か禅宗は受け入れられなかった。

○日本に禅宗が定着するのは、13世紀になってからのことである。その時代、中国五山の筆頭が径山萬壽禅寺であったことは言うまでもない。日本臨済宗の開祖、栄西が参禅したのは、天台山万年寺であり、日本曹洞宗の開祖、道元が参禅したのは、天童寺や阿育王寺で、寧波の寺である。

○栄西が入宋したのは、仁安3年(1168年)と文治3年(1187年)の二回であり、 道元が入宋したのは、貞応2年(1223年)で、円爾の入宋は嘉禎元年(1235年)のことである。