聖一国師:円爾 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○径山寺山門脇の細道を辿ると、左手に「道○亭」(○:さんずい+関の字)と言うものがあって、二人の僧侶像が立ち並んでいるのが見えた。

○行ってみると、脇に石碑があって、無準禅師(1177~1249)と圓爾辯圓(1202~1280)の業績が紹介されている。だから、僧侶像は無準禅師と円爾の像であることが判る。

○別に、「日本聖一國師像」と石刻された碑も存在する。どうやら、円爾を顕彰する目的で建てられたものであるらしいことが判る。両方とも、真新しいものであるから、最近建てられたばかりのものではないか。

○現代で、「聖一國師」が円爾であることを理解できる人は少ないのではないか。ウィキペディアフリー百科事典が案内する円爾は、次の通り。

      円爾
   円爾(えんに、建仁2年10月15日(1202年11月1日) - 弘安3年10月11日(1280年11月10日))は、
  鎌倉時代中期の臨済宗の僧。駿河(静岡県)の出身。諡号(しごう)は聖一国師(しょういちこくし)。
  【生涯】
   建仁2年(1202年)、駿河国安倍郡栃沢(現静岡市葵区)に生まれる。幼時より久能山久能寺の堯
  弁に師事し、倶舎論・天台を学んだ。18歳で得度し、上野長楽寺の栄朝、次いで鎌倉寿福寺の行勇に
  師事して臨済禅を学ぶ。嘉禎元年(1235年)、宋に渡航して無準師範の法を嗣いだ。法諱は初め弁円
  と称し、円爾は房号であったが、後に房号の円爾を法諱とした(道号はなし)。なお、「円爾弁円」
  と4字で表記される場合もあるが、前述のとおり円爾には道号はなく、新旧の法諱を併記した「円爾
  弁円」という表記は適切ではない。
   仁治2年(1241年)、宋から日本へ帰国後、上陸地の博多にて承天寺を開山、のち上洛して東福寺
  を開山する。宮中にて禅を講じ、臨済宗の流布に力を尽くした。その宗風は純一な禅でなく禅密兼修
  で、臨済宗を諸宗の根本とするものの、禅のみを説くことなく真言・天台とまじって禅宗を広めた。
  このため、東大寺大勧進職に就くなど、臨済宗以外の宗派でも活躍し、信望を得た。
   晩年は故郷の駿河国に戻り、母親の実家近くの蕨野に医王山回春院を開き禅宗の流布を行った。ま
  た、宋から持ち帰った茶の実を植えさせ、茶の栽培も広めたことから静岡茶(本山茶)の始祖とも称
  される。墓所ともなった「医王山回春院」の名は茶の持つ不老長寿の効能をうたったものと伝えられ
  る。 なお、静岡市では、円爾の誕生日(新暦)である11月1日を「静岡市お茶の日」に制定し、茶業
  振興のPRに努めている。
   没後の応長元年(1311年)、花園天皇から「聖一」の国師号が贈られた。
  【博多祇園山笠の生みの親】
   博多の勇壮な夏祭りである博多祇園山笠は、円爾が起源とされる。
   疫病が流行していた博多で、円爾が博多町人に担がれた施餓鬼棚の上に乗り、水を撒きながら疫病
  退散を祈祷したのが山笠の始まりとされ、今日ではこの時を山笠の歴史の始まりとしている。櫛田神
  社のお祭りである山笠が承天寺前をコースとし、各舁き山が櫛田神社のみならず承天寺にも奉納する
  のはこうした歴史的経緯があるため。

○径山寺は五山筆頭の寺であるから、日本からは大勢の僧侶が訪れている。中国の検索エンジン百度の「百度百科」が載せる径山寺案内では、日本人僧として、俊芿、圆尔辨圆、无本觉心、南浦昭明らが径山寺に参禅したことをのせている。その圆尔辨圆が聖一国師である。

○聖一国師となった辯圓が修行したところが径山寺であり、その師が無準禅師であると言う。おそらくその頃が径山寺の最盛期であったのではないか。