補陀落渡海の意味するもの | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○「華嚴經」卷第六十八に、
      善男子。於此南方。有山。名補怛洛迦。彼有菩薩。名觀自在。
      汝詣彼問。菩薩云何。學菩薩行。修菩薩道。
と載せるように、觀自在菩薩がいらっしゃるのは南方の山で、その名は『補怛洛迦』山だと言う。

○それが中国では普陀山であり、洛迦山だと言う。つまり、『補怛洛迦』山を二つに分けて、普陀山と洛迦山の名が存在する。だから、普陀山と洛迦山は、もともと、二つではなく、一つの概念であることが判る。

○中国で、觀自在菩薩がいらっしゃる補怛洛迦山を普陀山と洛迦山に分けていることに、最初、非常に違和感を覚えた。どうして、わざわざそういうことをするのだろうか。補怛洛迦山を普陀山と洛迦山に分けるには、当然、それなりの必要があってからのことに違いない。

○それが補陀落渡海なのではないか。そういうふうに感じたのは、日本の熊野に補陀落渡海信仰が残されているからである。「ウィキペディアフリー百科事典」が載せる補陀落渡海は、次の通り。

      補陀落渡海
   補陀落渡海(ふだらくとかい)は、日本の中世において行われた、捨身行の形態である。
  【概要】
   この行為の基本的な形態は、南方に臨む海岸に渡海船と呼ばれる小型の木造船を浮かべて行者が乗
  り込み、そのまま沖に出るというものである。その後、伴走船が沖まで曳航し、綱を切って見送る。
  場合によってはさらに108の石を身体に巻き付けて、行者の生還を防止する。ただし江戸時代には、
  既に死んでいる人物の遺体(補陀洛山寺の住職の事例が知られている)を渡海船に乗せて水葬で葬る
  という形に変化する。
   最も有名なものは紀伊(和歌山県)の那智勝浦における補陀落渡海で、『熊野年代記』によると、
  868年から1722年の間に20回実施されたという[1]。この他、足摺岬、室戸岬、那珂湊などでも補陀落
  渡海が行われたとの記録がある。
   熊野那智での渡海の場合は、原則として補陀洛山寺の住職が渡海行の主体であったが、例外として
  『吾妻鏡』天福元年(1233年)五月二十七日の条に、下河辺六郎行秀という元武士が補陀洛山で「智
  定房」と号し渡海に臨んだと記されている。
   補陀落渡海についてはルイス・フロイスも著作中で触れている。

○ここには日本の荒唐無稽な補陀落渡海の話が掲載されている。しかし、それは本来の補陀落渡海ではない。もともと、補陀落渡海は神聖な行の一つであった。それは、中国では普陀山の沖合5劼防發ぶ、観音様のお姿をした洛迦山に渡ることであり、日本では宝島の沖合10劼防發ぶ、観音様のお姿をした小宝島へ渡ることを意味した。補陀落渡海は、もともとそういう極めて現実的な宗教行事だったと思われる。

○ある意味、補陀落渡海こそが究極の出家だと思われていたのではないか。俗世から完全に身を去るのであるから、これ以上の出家はない。そうすることによって、より高い宗教的見地を得ることを希求したものと思われる。

○観音信仰には自傷行為を伴うことがある。それは現代の普陀山にも見られることで、普陀山では厳にそれを禁じている。おそらく、それは補陀落渡海にも共通することなのではないか。

○原型とは相当形が変形しているけれども、日本の熊野に補陀落渡海が残存していることに拠って、私たちはその原型に遡及することができる。さらに補陀落渡海が熊野に残されていることも決して偶然ではあるまい。何故ならここには日本の最も古い仏教が別にも残されているからである。それが辯才天信仰である。

○観音信仰を遡ると、不思議に辯才天信仰に辿り着く。それは日本に於いてそうなのだが、中国には何故か辯才天信仰の痕跡がほとんど見受けられない。それほど辯才天信仰は古いと言うことなのだろう。

○もう少し時間を掛けて寧波界隈を丁寧に歩いてみる必要性を痛感している。