補陀落渡海の島 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○2012年11月10日12時38分に、李さんと二人、洛迦山の入解脱門前に存在する『游客止歩』の看板を通り抜けて、いよいよ洛迦山の最北端を目指すこととなった。

○もっとも、李さんは10月25日に、ここを訪れ、すでにその光景を目にしている。それがどんな光景であるか、私にはとんと想像も付かない。

○道は石畳となっていて、100辰曚百砲笋に登り、頂点に達する。そこから先、少し下って行った先に、再び『游客止歩』の標識が掲げられていた。李さんの説明では、これらの『游客止歩』の標識は、洛迦山への参詣客が入解脱門から先に行かないように設置されたものではないかとおっしゃる。

○入解脱門から先には洛迦山参詣に関するものは何も存在しない。洛迦山の参詣客が迷い込まないために設置されているものだと言う。だから、それほど気にする必要はならしい。

○二つめの『游客止歩』の標識のあるところからは、洛迦山の最北端に設けられている灯台の施設が望遠された。李さんがこれからあそこまで行きますよとおっしゃる。そこがどういうふうなのかが気になって仕方がない。

○それから先、道はどんどん下って、終に崖の上に辿り着いた。崖からは小道がさらに下っていて、眼下にある小さな船着き場まで続いている。そして、その右手に洛迦山の最北端部を見ることができた。

●この風景が私が夢にまで見た光景である。それに気付いたのは、3月に李さんに連れられて普陀山東海岸の百歩沙:師石亭から初めて洛迦山を眺めた時のことである。このことについては、本ブログ、
  ・書庫「海天佛国:普陀山」:ブログ『洛迦山と小宝島』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/36383265.html
に、詳しく書いている。

●実は、3月に中国を訪れる前に、日本でインターネットで普陀山について、いろいろと調べているうちに、普陀山から望む洛迦山の写真を見付け、驚いた。その際、普陀山から望む洛迦山が、宝島から望む小宝島の風景とまるで同じであることに気付いていた。

●宝島から望む小宝島の風景は、2009年7月3日から6日にかけて吐噶喇列島を訪れ、宝島に2泊した。その時、宝島から小宝島を望遠している。本ブログ、
  ・書庫「吐火羅の旅」:ブログ『宝島遊覧ーせんごどまり港・大籠海水浴場』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/28537967.html

●それで、どうしても宝島から望む小宝島の光景を見たくて、5月に再度、吐噶喇列島を訪問した。そのことについて、本ブログに、
  ・書庫「吐噶喇往還」:ブログ『吐噶喇往還の旅』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/36599027.html
として、書いている。

●また、7月に再び普陀山を訪れ、洛迦山まで出掛けた。このことについては、本ブログに、
  ・書庫「普陀山・洛迦山」:ブログ『補陀落渡海』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/36926359.html
として、詳しく書いている。

●だから、2009年7月に初めて宝島から小宝島を望遠してから、足掛け3年かけて辿り着いた話である。それをやっとの思いで見ることができた。感激も一入である。

○崖から船着き場に通じる小道を下った。そこは小さな船着き場で、コンクリート製の船を着ける施設が設置されているだけの場所であった。ちょうど、桜島の避難港ほどの大きさである。

○右手に洛迦山の最北端部となるところが見える。普陀山から望む洛迦山の観音様の寝姿の頭部に当たる。あまりに大き過ぎて写真にやっと入るくらいである。何しろ足場が悪いので、船着き場以外からは写真も満足に撮ることはできない。

○李さんは10月に一人でここを訪れ、この光景を目にしている。李さんのお陰で私はここを訪れることができた。感謝申し上げるほかない。その李さんも私から話を聞いて、半信半疑だったらしいが、ここを訪れ、普陀山から望む洛迦山のの様子を見るにつけて、私の論が本当ではないかと思うようになったらしい。

○それは、中国の普陀山信仰がすでに見失っているものである。日本にその残映が僅かに残っているに過ぎない。日本では補陀落渡海と言う。しかし、日本の補陀落渡海は、まるで荒唐無稽な話となっている。もともとの補陀落渡海は、現在の日本で喧伝されているものと全く別物だった。それが中国の普陀山の洛迦山崇拝であり、宝島の小宝島崇拝ということである。

○もともとの補陀落渡海は、おそらく、普陀山から洛迦山へ渡ることだったと思われる。それは難行中の難行で、死地へ赴くことでもあった。業を積んだ僧だけに特別に許される荒行で、行きはあるけれども、帰りはない行であった。それが補陀落渡海の原型であろう。

○中国の普陀山には、補陀落渡海の場所も確認できる。それが観音跳である。現在の普陀山では、観音跳は観音様が跳んで来た場所とされるけれども、そうではあるまい。実際、観音跳を訪れると判ることだが、観音跳の先には洛迦山が望見される。つまり、観音跳は、補陀落渡海する場所であったことが判る。だから、観音跳と命名されている。

○また、それは日本の宝島と小宝島との関係に於いても同様のことが言えよう。宝島から望見される小宝島の景色は、まるで普陀山から望む洛迦山と同じなのである。

○だから、洛迦山も小宝島も人の住む島ではなかった。現在、洛迦山に存在する寺院も、それは遙か後世になって造作されたものに過ぎない。小宝島だって、天保十四年(1843年)刊行の「三国名勝図会」に拠れば、江戸時代、この島は無人島であった。

○観音信仰は、日本でも中国でも、最も盛行している仏教だと思われる。しかし、意外に本来観音信仰がどういうものであるかは明確にされていない気がしてならない。

○李さんは敬虔な普陀山の佛徒だが、私は怠惰な浄土真宗の門徒に過ぎない。しばらく洛迦山の小さな船着き場で、洛迦山の最北端部を眺めながら、呆然と時を過ごした。