長浜氏の成立 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○松永守道著「三島村秘史」が載せる長浜家古文書に記録されている人物名を整理すると、以下のようになるのではないか。

(行幸供奉輩者)
    正三位内大臣兼行資盛:重盛(清盛の男)の男。
    大納言時房
    中納言経正:経盛(清盛の異母弟)の男。(平治元年~貞応元年:六十四歳卒)
    参議蔵人大夫業盛:教盛(清盛の異母弟)の三男。(永暦2年~寛喜2年:七十歳卒)
    淡路守清房:清盛の男。
    豊前守知邦
    美作守宗親
    左大弁忠綱
    蔵人左衛門大尉通正
    佐内侍(保元3年~天福元年:七十六歳卒)
    狭野内侍(仁安元年~寛元3年:八十一歳卒)
  (大将者)
    越中次郎兵衛尉景光
    上総五郎兵衛尉尉盛継
    日高阿波前司吉房
    日高形部真房(日高阿波前司吉房の男)
    上総五郎兵衛
    福原相模守季長(後号肥後)
    福原相模守カ男右馬介季利
  (雑兵・国人)
    菊池次郎行吉
    二郎左衛門尉行古
    菊池三郎吉康(菊池行吉の男)

  (硫黄島で誕生した者)
    資盛長男(長浜)三位吉資(伊王丸)(長浜氏元祖)(建久元年~建長2年:七十二歳卒)
    次男吉広(阿丸)(建久5年~元仁元年逐電:北国長浜祖)
    資盛女(櫛匣局)(建久9年~文永2年)
    吉盛(吉資の男)(建永元年~正元元年:六十九歳卒)
    隆盛親王(吉英)(承久3年~正応5年:七十二歳薨)

○「社例根元之覚」が記録する人物は、直接安徳天皇とは関係がないと思われるので略す。また、「硫黄大権現宮御本縁」には、

  菊池次郎云国人被召二郎左衛門尉行古

と記すから、別人としたが、これはどうも、菊池次郎左衛門尉行吉で、同一人物ではないかと思われる。

○十島村の七嶋五家と称される、日高・有川・肥後・平田・新羅の各家がどういう伝承を伝えているか知らないが、硫黄島の長浜家では平重盛の子孫であり、安徳天皇の末裔が長浜氏であるとする。

○ただ、多くの系図がそうであるように、伝えられた系図がそのまま正しいものとは云えない。特に、長浜家の場合、歴史上では、安徳天皇を始め、資盛や経正等、壇ノ浦合戦で亡くなっていることになっている。

○もっとも考えられるのは、平家滅亡後の平家残党の動向であろう。主家である平家は滅亡したが、取り残された南島の平家の残党がその後どうしたかと言うことである。多くの平家の残党が九州や四国の山間部に隠れ潜んだと言う平家伝承が各地に残されている。

○しかし、三島村や十島村の場合、あまりの辺境の為、追討するにも、容易に追討することは出来なかった。結果、そのまま放置されたのではないだろうか。当時、日本の南限が三島村あたりであって、十島村あたりは日本の範疇でさえなかったと「源平盛衰記」は記録している。

○だから、当時、薩摩潟でもっとも勢力を誇ったと思われる長浜氏が安徳天皇生存説を称え、自らを平資盛の子孫だと名乗ったとしても、全く不思議ではない。それまで平家が独占していた権益を自由に我が物に出来たのも長浜氏であったろうと想像出来る。

○小松平氏を名乗るにも理由がある。それまで薩摩潟を支配し、権益を独占していたのが小松平氏であったわけであるから。自らを平資盛の子孫だとすることで、その権益を自由にする理由付けにしたのではないか。

○ある意味、それは極めて危険なことでもあった。源氏の世の中に、平家の子孫を名乗ることは追討の可能性が存在したわけである。しかし、長浜氏は、万一、追討されても逃げおおせる兵力と船団を保持していたと考えるべきなのだろう。それほどの僻地が三島村であり、十島村である。

○それに源氏にしたところで、何時までも源平合戦に拘泥する余裕などなかったのではないか。三島村や十島村の平家勢力を認め、利用することが日宋貿易や日明貿易を維持出来る唯一の方策であった。

○その日宋貿易や日明貿易で最大の輸出品であった硫黄の最大の産地が硫黄島であったことも見逃すことは出来ない。長浜氏の出現がこの時期であることは決して偶然ではない。それは造作された歴史であることの可能性は極めて高い。

○このようなことは、他の氏でも盛んに行われていることなのだから、別に長浜氏が責められることでもない。歴史に於いては、ごく普通の当たり前の造作なのである。ただ、歴史とはそういうものであることを知っておく必要がある。