春暁
春眠不覺曉 春眠暁を覺えず
處處聞啼鳥 處處に啼鳥を聞く
夜來風雨聲 夜來風雨の聲
花落知多少 花落つることを知る多少
○古来、「春眠暁を覺えず」の句が特に有名で、普通、『春の眠りは(心地よいので、ついつい寝坊をしてしまい)明け方が分からずに眠り呆けてしまった。』と解釈されている。しかし、よくよくこの詩を読むとそんな話でないことは明らかである。
○「春眠」を強調するが故に、上記のような解釈に陥ってしまう。肝心の孟浩然には全くそういう意識は無いのに、後人が我が儘勝手な誤った解釈をして、それを孟浩然に押しつけている。作者である孟浩然にとって、これほどひどく迷惑な話はない。今なら名誉毀損で訴えられるところであろう。
○孟浩然が「春眠暁を覺え」なかったのは、全く個人的な理由に拠るものである。その理由にしたところで、孟浩然は「夜來風雨の聲」と詩中ではっきりと明確に表現しているにもかかわらず、読者はそれを完全に無視して解釈して止まない。
○本当は、孟浩然は次のような話がしたいに違いない。
今は春の朝である。
もう外では既に朝の陽光が照り出しているのを感じる。
それなのに、私はまだ蒲団の中で、朝の鳥の鳴き声を聞いている。
昨夜は春の暴風雨で、一晩中雨風の音がひどかった。
それにさんざん悩まされて、私は一睡することも出来なかった。
お陰で私は今朝はひどく寝坊してしまった。
そう言えば、我が家の庭には美しい花が咲き誇っていた。
あの花々は昨夜の暴風雨でどれくらい散ってしまったことだろうか。
○誰が読んでも「春眠暁を覺えず」の原因と理由ははっきりしている。起承転結の起句が「春眠暁を覺えず」である。その原因と理由について、作者が承句や転句・結句で言及しないはずはない。だから、「春眠暁を覺えず」の解釈が、『春の眠りは(心地よいので、ついつい寝坊をしてしまい)明け方が分からずに眠り呆けてしまった。』などとなることはあり得ない。
○それに、この詩の主題は惜散花であって、決して春眠などではない。あまりに起句の出来が良過ぎて、起句だけが一人歩きしてしまい、作者孟浩然が本来伝えたかった主題は、すっかり見失われてしまっている。本末転倒も甚だしい。
○孟浩然「春暁」の詩は、あまりにも有名で、漢詩を学習した誰もが学んでいる詩である。おそらく、そのほとんどの人が上記のように学び、理解しているのではないだろうか。でも、それは明らかに間違いである。
○「春眠暁を覺えず」の句は、あまりに人口に膾炙され過ぎてしまって、誤った解釈が社会通念としてまかり通っている。常識が正しいとは限らない。
○昨夜は春の暴風雨であったにもかかわらず、我が家の梅の花は健在であった。心なしか香りが消えた気がした。気のせいかもしれないが。