行く春や鳥啼き魚の目は泪-句解4 | 古代文化研究所

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○では、実際、芭蕉の「行く春や鳥啼き魚の目は泪」の句について、諸本はどのように句解しているのであろうか。手元にある本をいくつかを紹介してみたい。

○角川文庫「奥の細道」(潁原退蔵・能勢朝次訳註)は、『俳句評釈』の中で、次のように記す。

  行く春や鳥啼き魚の目は泪
   幻の巷と思い捨てても、さすがに前途三千里の思いには、胸も塞がり泪もおのずから湧いてくるの
  であった。折から春も逝こうとしている。空に飛ぶ鳥、水に遊ぶ魚も、何となく春の名残を惜しみ悲
  しんでいるようである。そうしてその魚鳥の情は、やがて芭蕉自身の別離の悲しみに通うものであっ
  た。
   「魚の目は泪」というような、一見技巧的な表現を用いていながら、しかも離別の現実感が惻惻と
  心を動かすのは、自然の情と芭蕉の心とがぴったりと合っているからである。留まる者を魚に比し、
  行く者を鳥に喩えたのだという説もあるが、作者の意中まずそうした比喩観念が存して、これを一句
  に表したのではない。ただ別離の悲しみを、そのまま魚鳥の情に託したのである。
   なおこの句の趣向の基づくところとして、杜甫の「時に感じては花にも泪を濺ぎ、別れを恨みては
  鳥にも心を驚かす」や、古楽府の「古魚河を過ぎて泣く、何れの時か還りて復た入らん」などを挙げ
  たり、また古今集の「なきわたる雁の涙や落ちつらむもの思ふ宿の萩の上の露」などが引かれたりし
  ているが、それらの出典は単に参考にとどめるべき程度のもので、芭蕉の句が直接それらをふまえて
  成ったものと見るには及ばない。

●ここでは、句だけを鑑賞するのではなく、前文をも含めて鑑賞しようとする姿勢が伺える。なぜなら、前に記したように、この句だけなら、離別の情はあり得ないからである。だから、「空に飛ぶ鳥、水に遊ぶ魚」と表現するのであろうが、分析は極めて中途半端であると言わざるを得ない。

●もし、前文をも含めて鑑賞しようとするなら、鳥も魚も限定されるはずであろう。俳諧紀行文として、この句を鑑賞するなら、この鳥は鶯であろうから、飛ぶより鳴き声に句の中心はあるし、魚も白魚であるから、水に遊ぶ魚ではなく、魚屋の店先か、料理として出て来た魚であるはずだ。決して、「空に飛ぶ鳥、水に遊ぶ魚」ではあり得ない。もちろん、留まる者を魚に比し、行く者を鳥に喩えたのだという説など、論外である。

●また、「自然の情と芭蕉の心とがぴったりと合っている」と言うけれども、本当だろうか。ここでの「自然の情」とは、当然、「惜行春」であろうが、芭蕉の心の中心を占めるのは、あくまで「離別情」であって、「惜行春」ではないはずだ。「自然の情と芭蕉の心と」は、どこか、微妙に交錯しているのである。この場面に、この句はぴったりと当てはまってなどいない。その違和感を感じられないのは、どこか可笑しい。

●確かに、「何となく春の名残を惜しみ悲しんでいるようである魚鳥の情」と「芭蕉自身の別離の悲しみ」とは、悲しみと言う点では一致する。しかし、それは決して、「自然の情と芭蕉の心とがぴったりと合っている」とは、表現出来ないはずだろう。

●杜甫や古楽府の引用例についても、同様である。出すなら、孟浩然の「春暁」か、杜牧の「江南春」であって、杜甫の「春望」や古楽府などではあり得ない。パーンとした絢爛爛漫な残春がなくては惜春の情は死んでしまうからだ。芭蕉が心掛ける俳趣は、老荘趣味である。滔々たる自然の推移と、取るに足りない微細な人事を凝視する眼がこの句の根底にはある。

●つまるところ、離別の情はもちろんのこと、惜行春の情すら、無用とバッサリ切り捨てる覚悟が芭蕉にはある。啼鳥や魚泪は、あくまでそれを感じる人の感情に他ならない。それは決してこの句の中心ではない。この句の最初に、切れ字「や」が「行く春」と言う主題を具現していることを忘れてはなるまい。この句の主題は自然であって人事ではない。人事は自然の中の、ほんの些細な現象に過ぎない。その事実を発見し、表現したのが、『行く春や鳥啼き魚の目は泪』の句である。それがこの句の大きさである。もともと離別の情や惜行春の情などに拘泥する句ではない。

○「行く春や鳥啼き魚の目は泪」の句と、奥の細道の地の文とは、微妙に交錯していることを見抜かない限り、真の鑑賞はあり得ない。もともと、ここに在ったのは、「鮎の子の白魚送る別れかな」の句である。それを芭蕉は「行く春や」の句に変更した。その無理が上記のような鑑賞文を生み出した。芭蕉のこだわりが、意外なところで混迷を産んでしまっている。義仲寺で、多分、芭蕉は苦笑している。