行く春や鳥啼き魚の目は泪-句解3 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○最後に、松尾芭蕉が丹精込めて造作した奥の細道の矢立ての句、「行く春や鳥啼き魚の目は泪」を鑑賞してみたい。

○冠辞「行く春や」は、やはり重たい。「惜春」とか、「惜行春」は、それこそ万葉集の時代から連綿と書き継がれて来たテーマであり、誰もが詠んでいる題詠でもある。表現者に相当の覚悟がなければ、とても詠めるものではない。だから、人は、「行く春や」と来ただけで、次にどんな内容を持ってくるかを誰もが期待する。その期待を裏切らないだけの力作はそうあるものではない。

●また、此処には切れ字も存在する。切れ字「や」もまた平凡なもので、感動や詠嘆の終助詞とされるが、もともとは、係助詞であるから、事後の内容と事前の表現とは、倒置にになっていると考えたが良い。事前の表現内容が重すぎるから、前に来たと言うことだ。冒頭に主題をドンと置いた表現は、ある意味、平凡で、句としては、最初に主題を置くわけだから、収まりは良いけれども、事後に相当の新規がなければ、陳腐に陥る危険性を秘めている。それを覚悟の上で、「行く春や」を冠辞とする表現は、ズブの素人か、かなりの手練れかのいずれかである。

○中句は「鳥啼き」のみとするのが、この句では良いのかもしれない。「啼鳥」は、漢詩の中にも良く目にする表現であるし、「とりがなく」は枕詞にもなるほど、古くから存在し、かつ言い古された表現である。

●「啼鳥」の表現は、孟浩然の「春暁」では、『処処聞啼鳥(処処に啼鳥を聞く)』とそのままあるし、杜牧の「江南春」では、『千里鶯啼綠映紅(千里、鶯啼いて、綠紅に映ず)』と表現されている。「春暁」は、物憂く気怠い春の朝の寸描であるのに対し、「江南春」は広大な江南一帯を鳥瞰し、俯瞰した錦絵と水墨画が織りなす絶景である。これに杜甫の「春望」の『感時花濺涙 恨別鳥驚心』を添えたら、もう完璧だろう。格別、陶淵明の「帰田園居」の『羈鳥恋旧林 池魚思故淵』まで考慮せずとも、道家趣味は存分に尽くされている。

●万葉集巻十九には、大伴家持の歌がある。

  春の野に霞たなびきうら悲し この夕かげに鶯鳴くも(4290)

●時代はずっと下るが、近代の象徴派詩人の歌う歌も、また全く同じである。

  春の鳥な鳴きそ鳴きそあかあかと外の面の草に日の入る夕 (北原白秋)

●あけぼののころに、深川を出立し、隅田川を溯った芭蕉一行が千住に到着したのは、「曾良旅日記」に拠れば、巳の下刻とある。今で言えば、午前十時過ぎである。おそらくここで皆して午餐をとったに違いない。だから、馬の餞の儀式は午後になる。この日、芭蕉と曾良が歩いたのは、千住から草加まで。二里、八キロの足慣らしに過ぎない。

○最後の「魚の目は泪」こそが、この句の眼目である。普通なら、前句の「鳥啼き」に合わせて、散華か落花を詠むところであろう。それを「魚の目は泪」とする器量は、並み大抵ではない。

●しかし、どんな名句にも、実に平凡な契機が存在する。それを「蕉翁句集草稿」が種明かししてくれる。それに拠ると、この旅立ちの際、実際、芭蕉が詠んだ句は次のようなものであった。
  鮎の子の白魚送る別れかな
それについて、「蕉翁句集草稿」は、こう述べる。
  此句、松嶋旅立の比、送りける人に云出侍れども、位あしく仕かへ侍ると、直に聞えし句也
だから、芭蕉は奥の細道執筆に際して、「鮎の子の」の句を「行く春や」の句に差し換えた。その理由を「位あしく」としている。

●「鮎の子の白魚送る別れかな」は、離別の挨拶としては、申し分のない句である。ただ、それはその場限りのものに過ぎない。万人に普遍の価値を見出し得ない。だから、芭蕉は、ここに「行く春や」の句を持ってきた。離別と惜春の情をどうにかして組み合わせたいと願ったのである。

●「行く春や」の句は、まず、冒頭にドンと主題を置いた。続けて、それにふさわしく「鳥啼き」とした。次に来るのは、当然「散華」か「落花」くらいしかない。

●しかし、それでは俳趣を出すことは出来ない。仕方がないから、「散華」の代わりに、「鮎の子の白魚送る別れかな」から採用して「白魚の涙」とした。それでも芭蕉は落ち着かない。次に「魚の目に泪」とした。それを更に推敲した結果が「魚の目は泪」となったのであろう。芭蕉のこだわりがここにある。

●「鮎の子の白魚送る別れかな」の句も、この時期、地元深川あたりで仕入れた知識に過ぎまい。当時、白魚と桜草は隅田川の春の名物で、王子村と千住村の間にある尾野あたりに、白魚漁の四手網が仕掛けてあって、春の隅田川の風物となっていた。その白魚漁で、一緒に捕れるのが鮎の子であった。

●多分、千住の午餐で、白魚が出たのではあるまいか。いや、きっと白魚を求めたに違いない。風雅の旅に出る人も、送る人々も、皆風流を自認する人々である。此処まで来て、この時期、白魚を食しないのは罪である。送別の宴は結構盛会で、散々飲み食いした芭蕉と曾良は、千鳥足でヨタヨタと草加へ向かったことであろう。

○芭蕉にとって、俳諧は全てである。「幻住庵記」で、芭蕉は『終に無能無才にして此の一筋につながる』と記している。しかし、その生き様は、決してことさら深刻でも、辛酸を舐めると言うふうでもない。心底、貧を楽しみ、不窮を愛する姿勢は、道士としてのそれである。この点について、俳諧集「猿蓑」序文で、芭蕉は次のように記している。

   幻術の第一として、その句に魂の入らざれば、夢に夢見るに似たるべし。久しく世に止まり、長く
  人にうつりて不変の変を知らしむ。五徳は言ふに及ばず、心を凝らすべきたしなみなり。

○芭蕉にとって、俳諧とは「幻術」なのであり、「不変の変を知らしむ」法なのである。また、それは、「五徳(温・良・恭・倹・譲)」はもちろんのこと、「心を凝らすべきたしなみ」であるとする。芭蕉に於ける俳趣とは、畢竟道術であることを多くの人が見失っている。