●あれだけの分量があるのだから、原文と通釈くらいは付けてもよさそうなものだ。果たして、「曾良旅日記」や「奥細道管菰抄」をどれだけの人が利用するだろうか。まあ、「曾良旅日記」は重宝する人もいるかもしれないが、「奥細道管菰抄」は、江戸期の芭蕉研究の参考にはなっても、現代の芭蕉探究としてはほとんど役立たない。そのことは編者自身、よく分かっているはずだ。
●実際、文庫本は、「おくのほそ道」原文が62ページ、補注6ページ、「曾良旅日記」が67ページ、「奥細道管菰抄」が87ページと言う配分で、どう考えても一般読者に配慮された編集とは言い難い。分かり易く、丁寧な「奥の細道」案内を岩波文庫が目指しているとは、到底思えない。中途半端な資料紹介になっている。それなら、いっそのこと、原文と通釈だけでよかった。現在の岩波文庫本の「奥の細道」の真の目的が何であるかが、よく分からない。
○それに対して、岩波現代文庫「芭蕉・蕪村」(尾形仂)は、面白い。少し専門的過ぎるきらいもあるが、著者の鋭い視線が、随所に光っていて、読む者を刺激して止まない。著者独特の視点が提示され、芭蕉の読み方を教えてくれる。多分、こういうふうに芭蕉は読むのであろう。
●尾形仂の「芭蕉・蕪村」には、『行く春や鳥啼き魚の目は涙』の句について、以下のように指摘している。
冒頭に続く「旅立ち」の章の『行春や鳥啼魚の目は泪』の句は、旅行当時、「鮎の子のしら魚送る
別哉」の句形でよまれたものを、紀行文執筆の際、巻末の「行秋ぞ」の句との照応を考慮して改稿し
たものであることが知られるが、『おくのほそ道』という作品は、この「行く春」と「行く秋」の照
応をもって、流転の相に身をまかせた永遠の旅人としての詩人の感慨を強く訴えかけており、そこに
は明らかに芭蕉の構成上の計算がはたらいていたといわなければならない。【中略】
つまり、『おくのほそ道』という作品は、「行く春」と「行く秋」をつなぐ線を底辺とし、「平
泉」の章を頂点とする三角形の構成を通して、流転の相に身をゆだねることによって永遠なるものに
つながろうとする、俳人としての芭蕉の到達した人生観・芸術観を総合する“不易流行”の理念を大
きく語りかけていると見ることができるだろう。
●こういう尾形仂の視点は、注目に値する。上記の文で、【中略】した部分には、平泉に関する記述が見られるのであるが、『奥の細道』が、「行く春」で始まり、「蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ」の「行く秋」で終わるのは、事実、芭蕉の壮大な俳諧紀行文『奥の細道』の構成の根幹をなす理念であろう。それはまた、古来「春秋の定め」として知られる美学を継承し、発展させたものであるにほかならない。
●ただ、「『平泉』の章を頂点とする三角形の構成」という考え方には、どうにも同調出来かねる。一般に「奥の細道」と言えば、どうしても平泉の章だけが特筆されるきらいがある。確かに平泉の章は、よく出来た章ではあるけれども、芭蕉が特筆するのは、決してそれだけではあるまい。日光がそうであり、白川の関、笠島、立石寺、羽黒、象潟、越後路、一振、金沢、小松など、見所・聞所・詠所はいくらでもあるのであって、必ずしも平泉の章が頂点ではあるまい。奥の細道は富士山ではなく、日本アルプスであることを見失うことは、ひどく危険なことである。ピークはいくらでも存在する。大体、書いた本人が連峰であることを意識しているのに、それを独立山であるとするのは、いくら何でも、無理難題と言うものであろう。
●本当に、「奥の細道」で、芭蕉が「大きく語りかけている」のは、「流転の相に身をゆだねることによって永遠なるものにつながろうとする、俳人としての芭蕉の到達した人生観・芸術観を総合する“不易流行”の理念」であろうか。そんな難しいものでは無いように思えてならない。多分、「奥の細道」が言いたいのは、次のような風である。
天外長風來
捲囲團黒風一旋了
忽和秋風天外
さわやかな春風がどこからともなく吹いてきて、
黒い風となって、一瞬、私の周りを巡ったかと思うと、
いつの間にか秋風に紛れて、何処かへと吹き去って行ってしまった。
○邯鄲の夢こそが「奥の細道」なのだ。芭蕉は廬生に過ぎない。芭蕉が廬生たらんと夢見た夢が「奥の細道」であると夢見る人こそが最も芭蕉に近づいた人である。そういうふうに、芭蕉は「奥の細道」を綴っているのだけれども、なかなか、芭蕉の真意は汲み取ってもらえない。皆、風流を解すると言う不可思議な人や、もっともらしい説を喧伝してやまない学者に惑わされている。芭蕉が道士であることを知る人は少ない。思想のない俳諧は何処か虚しい。