○先日、何気なく比叡山横川の写真を見返していたら、元三大師堂(四季講堂)の門の上に、『元三大師:自讃文』が掲げられているのが見えて、驚いた。これまで、完全に見落としていたものである。『元三大師:自讃文』がどういうものか。気になって仕方が無い。
○と言うのも、こういう讃とか偈、頌と言うものは、仏教徒にとって、とりわけ、特別のものであると判断するからである。例えば、月輪大師俊芿には、次の辭世頌がある。
同八日子時。復染筆書辭世頌曰。
生來徧學
經律論敎
一時打拼
寂然無窖
嘉禄三年閏三月初八日
○詳しくは、次のブログを参照されたい。
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入宋傳法比丘俊芿自賛幷びに辭世頌 | 古代文化研究所 (ameblo.jp)
○また、蘭溪道隆禅師の遺偈は、次のようになる。
蘭溪道隆遺偈
用翳睛術
三十餘年
打翻筋斗
地轉天旋
○これも、詳しくは、次のブログを参照されたい。
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蘭溪道隆禅師遺偈 | 古代文化研究所 (ameblo.jp)
○同じように、円爾弁円遺偈は、次のようにある。
釋辯圓遺偈
利生方便
七十九年
欲知端的
佛祖不傳
○これも、詳しくは、次のブログを参照されたい。
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○そういう意味で、今回は、元三大師堂(四季講堂)の門の上に掲げられていた『元三大師:自讃文』をみてみたい。
【原文】
元三大師:自讃文
本体如意輪
出首楞厳定
破生死魔怨
現作魔王身
【書き下し文】
本体は如意輪にして、
首楞厳の定より出づ。
生死は魔怨を破り、
現に魔王に身を作す。
【我が儘勝手な私訳】
私は本来、如意輪観音そのものであって、
それは『首楞厳経』を三昧することによって獲得される。
私は生涯を懸けて悪魔に立ち向かって来たので、
人には、私の姿は悪魔みたいに見えるかも知れない。
○元三大師堂(四季講堂)には、『元三大師と角大師の由来』と言う案内板が設置してあった。
元三大師と角大師の由来
永観二年、全国に疫病が流行して、ちまたでは疫病の神が
徘徊し、多くの人々が次々と全身を冒されていった。
お大師さまは、この人々の難儀を救おうと、大きな鏡の前
に自分のお姿を映されて静かに目を閉じ禅定(坐禅に)入ら
れると、お大師さまの姿はだんだんと変わり、骨ばかりの鬼
(夜叉)の姿になられた。見ていた弟子達の中で、ただ一人
明普阿闍梨だけがこのお姿を見事に写しとられた。
お大師さまは、写しとった絵を見て、版木でお札(ふだ)
に刷るように命じられ、自らもお札を開眼された。出来上が
ったお札を一時も早く人々に配布して各家の戸口に貼りつけ
るように再び命じられ、病魔退散の実を見事に示されたので
あった。やがてこのお札(角大師の影像)のあるところ病魔
は恐れてよりつかず、一切の厄難から逃れることが出来た。
以来千余年、このお札を角大師と称し、元三大師の護符とし
て、あらゆる病気の平癒と厄難の消除に霊験を顕し全国的に
崇められているのである。
○何とも、微笑ましい話である。しかし、本当の『元三大師と角大師の由来』はそういうことではあるまい。元三大師は高僧なのである。そんなつまらない話では元三大師を語ることはできない。そんな気がする。
○そういう意味では、『元三大師:自讃文』は大いに参考になる。おそらく、『元三大師:自讃文』から角大師の寓話が誕生したものと想像される。『元三大師:自讃文』で、元三大師は次の ように、説く。
如意輪観音菩薩を拝し、『首楞厳経』を読んで、仏道に励むこと。
身を粉にして仏道修行すれば、少しでも菩薩に近付くことができる。
悪魔に立ち向かうののだから、悪魔のように見えたところで仕方が無い。
○角大師の話は『元三大師:自讃文』から出たものではないか。そういう気がしてならない。