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SIS日記

NPO法人SIS(シス)スタッフによるリレー形式の日記です。
「こころが動いたこと」や「共有したいささやかな出来事」など
スタッフの「想い」を定期的に更新していきます。
どうぞお楽しみに!

そこにあるものみな美しき(続)
                     〔歌のさんぽみち〕
 
 
 前回の「そこにあるものみな美しき」で取りあげた短歌、その類歌を見つけたので紹介したい。
 
  幼な子にはじめての虹見せやればニギといふその美(は)しきにふるふ
                       (米川千嘉子)
 
  やはり、言葉を覚え始めた幼子と母の情景。今しも空に虹が架かった。その虹を指さして「ニジだよ」と教える。子はたどたどしく「ニギ」と言う。
 
 彼方の山裾あるいは丘から雲が残る空に向けて虹が架かった。母子の立つ世界が淡い七色に彩られている。「ニジ」が「ニギ」になったかも知れないが、母が思わず「ニジだよ」と言った感動は「ニギ」という子の中にもあって表出されている。《いま・ここ》に母と子は立ち会っている。共同のものになっている。その事実に、その美しさに母は打ち震える。
 米川千嘉子は、若き歌人である。子が、まだ言葉を覚えない時期の母と子についても多数の歌を詠んでいる。
 
 みどり子の甘き肉借りて笑む者は夜の淵にわれの来歴を問ふ
 
 まつ白きさくらよさくら女子(をみなご)も卵もむかし贈り物なり
                       (米川千嘉子)
 
  次回は、そういう時期の母子の歌を取りあげてみたい。 (つづく)
 
そこにあるものみな美しき
           〔歌のさんぽみち〕
 
 
指さして子にものの名を言うときはそこにあるものみなうつくしき
                       (早川志織)
 
 前回、「いやな声」を出して叱ってしまう子は、おそらく園児か児童だ。今回の「子」は乳幼児だろう。ようやく言葉を覚え始め、コレナーニなどとモノの名を聞いたりしている。それを受けて親が順にモノの名を言う。お皿、スプーン、カーテン、指さししながら。
 
 そういうとき、おとなにとってはすでに見知ったモノ、当たり前に存在しているモノが新しく見える。作者は、「そこにあるものみなうつくしき」と表現している。
 
 作者が表現している「うつくしき」という感覚が、よくわかる。身に覚えがある。そこにあるお皿が輝いて見える。何気なく転がっていたスプーンで掬う食べ物は何でも美味しそうに思えてくる。居間のカーテンが陽差しを包んで和らぎ、ティッシュボックスから取り出したティッシュにまるで羽根が生えたように思え、椅子の座面をポンポンと叩きながら「イスだよ」と告げたりすると、その子の目線で居間が新しく見え始めたりする。すでに当たり前に存在しているモノが、新しく、そして美しく思えてくる。
 
 どうして、モノが、新しく、そして美しく思えてくるのだろうか。言葉を覚えようとしているのは子どもであるのに、指さしてモノの名を教えている側の大人がそう感じるのはどうしてだろうか。
 
  モノの名を通じて世界を把握しようとする子の、《いま・ここ》に立ち会っている。その《いま・ここ》は、子を受けとめて、子に添って、子と共にある。「指さして」いるが、子の動きや目線を受けてのものだ。自分ひとりだけではない、共同の時間だ。子がモノの名を欲求することに主眼を置いた、かけがえのない共同の時間だ。そのような共同のなかで、すでに当たり前に存在しているモノが、新しく、そして美しく思えてくる。
 
 そのように把握した上で、前回にあげた短歌を思い出してみよう。
 
ああいやな声が出ると思いつつ子を叱る夕餉のときにいつも
                       (前田康子)
 
 ああ・いやな声だ・いつも……けれども、ついそうしてしまう。わが子に、心から願っていることと違ってしまう。それは、何だったのか。
 
 子を受けとめて、子に添って、子と共にある《いま・ここ》を願っていたはずが、《する・できる》の膠着化した線引きから降りられずにいるのだ、おとなが。 (つづく)
 
あぁ、いやな声が出ると思いつつ・・・
                                         〔歌のさんぽみち〕
 
 
 家族というものは、その年齢構成の両端に「幼(低年齢)」と「老(高年齢)」とが存在し、サンドイッチ状の真ん中に成人(おとな)がいる。核家族化にて「老」が常在すると限らないが、基本的にはそういうことだろう。
 
 『家族のなかの「幼」と「老」』をつなげて考えてみたい。なぜなら、家族の真ん中にいる成人(おとな)と比べると「幼」と「老」は《する》が小さい《できる》が小さいと言い換えてもよい。
 
 もちろん、成人(おとな)は《する・できる》が大きい。よって、家庭生活は特別なことがなければ成人の社会的・経済的活動に負うところが大きい。成人が働いて、その代価を得て、家庭生活が営まれる。
 
 しかし、私たちは、《する・できる》が大きい、小さいだけで家族を捉えているのではないはずだ。では、どう捉えるかと言うと、それをうまく言い表せないところがある。そこで、少し考えてみようと思う。
 
 例えば、次のような短歌がある。
 
ああいやな声が出ると思いつつ子を叱る夕餉のときにいつも
                       (前田康子)
 
  冒頭の「ああ」という溜め息。「いつも」なんだという末尾。何がかというと、「いやな声」が出てしまう。夕ご飯の時に。食事時のマナーのことなのか、食事時までに済ますべきことが中途になっているのか、わからない。だけれども、子どもを叱っている。それが毎度のことで、「いやな声が出ると思いつつ」と思いつつ叱ってしまう。
 
 自分で「いやな声」だと感じているのに、つい出してしまう。そういう声は、自分が出しているから自分の内部からのものだろうが、ではその自分の内部にはどのようにして生じたのだろう。わが子に、心から願っている声のかけ方なのだろうか。
 
 作者は、「いやな声」だということを自覚してこの言葉をここに置いている。《する・できる》が小さい子どもに対して《する・できる》が大きい成人(おとな)との落差が滲み出ている。
 
 ああ・いやな声だ・いつも……けれども、ついそうしてしまう。家庭のなかで成人(おとな)が振る舞ってしまう、誰にもありがちな場面を深く切り取っている。わが子に、心から願っていることと違ってしまう。それは、何だろうか。  (つづく)